<未完>束縛

Prologue.

”別れない”

俯いた彼女の姿が数日経過した今でも脳裏を離れない。茜さんと別れるなんてことは、奇跡的に思いが通じたあの夜から今日に至るまで、ただの一度も想像したことは無かった。
だから茜さんのいない日常を初めて考えてみることにした。例えば、今ベッドの上で受信した”おやすみ”というメッセージはもう届かないのだろうか。朝起きてすぐ”おはようございます”と癖で送ってしまいそうだ。”今日の予定”が連絡されることも合う約束をすることもなく、調味料・食器・着替え・景品のぬいぐるみ、この家に置かれたありとあらゆる彼女の私物も無くなってしまうのだろう。元々は存在しないもののはずなのに、無くなると何とも味気ない部屋になりそうだなと思った。勿論、この部屋に彼女自身が来ることも無いということだ。
茜さんのいない日常を想像してみても、その時の気持ちまで想像することはできなかった。そして、考えるだけ無駄だと思った。茜さんは愛想を尽かされることを恐れていたが、自分が茜さんに対して愛想を尽かし、茜さんを嫌いになることはそれこそ考えられない。だから茜さんと別れることは、ない。
茜さんが自分とは違い別れる可能性を想像していたこと、元カレと別れた経験があることは頭の隅へと追いやり、目を閉じた。胸のモヤが晴れることはなかった。

<1>

「山田、この前茜ちゃんと会ったぞ!」
……?」

イヤホンから流れ出る音の隙間から、自分を呼ぶ声が聞こえてきた。人の状況などお構いなしに声を掛けてくるのは、春から通う大学の先輩である井口先輩だ。彼の口から聞こえてきた”あかねちゃん”という人物の名前に、心当たりがなく首を傾げる。

「誰のことですか」
「えっ、お前無関心すぎるだろ……お前の彼女だよ」
「茜さん?」
「そうだって言ってんじゃん」
「なんで井口先輩が知ってるんすか」
「だって会ったじゃんこの前」
……あぁ」

あの一回でよく茜さんを認識したなと思った。自分には他人を一度会った程度では判別ができないから、人付き合いの盛んな井口先輩らしいなと感心する。
会話の内容を遅れて把握してから、同じくお喋り好きな茜さんから井口先輩の話を聞いてないなと、些細なことが気に掛かった。

「初対面の時はさ、大人しそうな、控えめな感じだったけどさ。この前会ったときは『山田くんの先輩ですよね、あの時はきちんと挨拶もできずにすみせん』って言ってくれたんだよ」
「そうっすか」
「ていうか、茜ちゃんって俺と同学年なのな。お前どこで年上と出会う機会なんてあったんだよ」
「話せば長くなりますね」
「簡潔に教えろよ。ニコニコしてて可愛いよな、お前羨ましすぎ」
「はぁ……
「恵まれた立場な自覚がねぇなぁ」

『これだからイケメンは』、といつも通り小言を聞き流していると、その態度を気に留めることもない井口先輩も通常運転だった。彼は先日会ったという茜さんの印象について話しを続ける。

「ダボッとした服着てるの、結構いいなって思ってさ」
「はぁ」
「前会ったときはシュッとした感じだったけど。ああいうファッションって何てジャンルだっけなぁ」
「はぁ」
「隣に連れて歩きてぇ!」
「はぁ?」

折れそうな靴とか、戦闘服とか、茜さんがその時に応じて服装を変えているのは知っているが、どの服が似合うだとか自分が判断するのもおこがましいので(と言うより良し悪しが分からないと言ったほうが正しい)、井口先輩の話はよく分からなかった。
記憶にある服装と言えば、太腿が顕になった際どい丈のスカートを履いていたとき『パンツが見えたらどうするんですか』と口にしてしまった時の恥ずかしそうな顔や、自分の服を貸したときの茜さんの身体の小ささを改めて実感したとき、などが記憶に新しい。が、その服たちがどんなデザインだったかを思い出すことはできない。

「茜ちゃんと話して思ったんだよね」
「?」
「やっぱ遊んでる子と一緒にいるのはそれなりに楽しいけど、付き合うなら茜ちゃんみたいなしっかりしたタイプがいいよなって」
「はぁ」

『しっかり』という言葉が引っかかった。しっかりと茜さんとが頭の中で結び付かず、少し混乱した。茜さんはしっかりしているようで危なっかしい。よく躓くし、道に迷ったりする。母に似て、少し目を離すことが怖い存在だった。
たまに困ってる人に声を掛けては一緒に困ったりする。でも彼女の周囲にいる人は、皆揃って笑っていることが多いと思う。茜さんを一言で表すならば、何と言うだろう。

「おい、お前茜ちゃんに興味無さすぎないか?」
「はぁ」
「誰でもいいならさ、茜ちゃん俺に譲ってよ~」

井口先輩の言葉の意味が咀嚼できず、頭上にははてなマークが飛び交う。 茜さんと井口先輩が二人隣り合い、茜さんから微笑みかけられて、同じ布団の中で眠る、ところまで想像して、なぜこんな不快な想像をしなければならないのかと我に返る。

…………は?」
「あ!あれ、茜ちゃんじゃね?茜ちゃーん!」
「ちょっと」

井口先輩が数百メートルは距離のありそうな大学の正門を指差すと、その場にいるらしい茜さんに駆け足で向かってしまう。足も早ければ、視力もバケモノだ。『猿』のニックネームが相応しいと心の中で納得した。
後を追うように正門へと向かうと、本当に茜さんがいて驚く。今日はお互い家に戻ってから合流する予定だったからだ。念の為スマホを確認するが、予定変更の連絡は入っていない。

「頻繁に会うねー!」
「ですね。あ、山田」
「今日はかっちりめな服装なんだね、似合ってる!」
「あ、ありがとうございます」
「ていうか敬語止めてよ!俺らタメじゃん!」
「そ、うだよね」

井口先輩のマシンガントークを一つ一つ受け止める茜さんは、井口先輩に圧倒されているようだった。よく見ると茜さんの向ける笑顔は彼女のよそ行きのもので、自分に向けられる温かみのある顔とは違うことを確認する。その顔を見たら彼女が困っているというのに、何故かホッとした気持ちになっていた。
それでも笑顔を絶やさない茜さんに気を良くしたのか、井口先輩が喋りを止めることはない。

「良かったらこれから三人で飯いかない?女の友達も何人か呼ぶし!」
「あ、じゃあ」

茜さんは俺の顔をチラッと伺ってから、井口先輩からの誘いを受けようとしたが、その返答を遮るように口を挟んだ。

「行きません」
「そっか、じゃあ山田はまた今度な。茜ちゃん、待っててな」
「え」

井口先輩からの予想外の返答に茜さんが目を丸くする。俺も少し付き合いがあるとは言え、この返しには呆気に取られて反応が遅れてしまった。

「井口先輩、そんなわけないでしょ」
「何だよ、嘘吐くなよ!」
「嘘なんか吐いてないです。俺と約束してるから、茜さんがここにいるんでしょ」
「あ、だよな。だったらこれから」
「茜さんは俺と約束があるんで」
……今度で良くね?」
……なんで?」

引き下がらない井口先輩の態度に苛立ち、眉間に力が入ってしまう。なぜここまで井口先輩が茜さんをしつこく誘おうとしているのか見当もつかないし、茜さんを一緒に行かせたくないという気持ちが強く働いた。普段は茜さんの意見を尊重したし、自分の意見を通すことはあまりないが、今日は引く気はなかった。

「茜さんと二人でいたいんですけど」
「なんだよラブラブかよ!あっ、俺もしかしておじゃま虫だった!?」
「はい」
「おい!先輩をもう少し敬え!山田と茜ちゃんにもっと仲良くしてほしいなーって思って、茜ちゃんのアシストするつもりだったんだけど!」
「なんで?」
「じゃあ茜ちゃん、またね!山田とラブラブになっ!」

言いたいことを言うだけ言って満足したのか、井口先輩は気が付くと傍に居た別の知り合いに声を掛けていた。
嵐が過ぎ去り、取り残された俺たちの間にはしばらく沈黙が訪れた。茜さんは俺の右腕に両腕を絡めると、下から俺の顔を覗き込んで優しく目尻を下げた。

「びっくりした?」
「何が?」
「井口先輩と知り合いになったの言ってなかったなって」
「いえ、別に。さっき井口先輩から聞きましたから」
「そっか」

茜さんはきっと、俺が止めなかったら井口先輩の後ろをついていき、その場に呼ばれた人間と親睦を深めただろう。人との交流が好きな彼女を止めたいと思わないし、好きなことをして笑っていてほしいとも思う。
交流を重ねる毎に出会ってしまう彼女を嫌う人間も、時間と共に彼女へ惹かれていき、友人という形に収まってきた。俺が口出ししていいことではないことはわかっている。
でも今日は、何故だか茜さんを他の人へ渡したくない、二人でいたいと思ってしまった。そんな心の狭い俺を、彼女はどう思っただろう。
一言も発さずにその愛らしい顔を見つめていると、堪えきれなくなったのか茜さんは視線を逸らした。

「ありがとう」
「なんでですか?」
「わたしも山田と二人でいたいなと思ってたから」

『わざわざ大学の前で待ち伏せしたんだもん』と言った茜さんの笑顔が眩しい。きっと茜さんの言う二人でいたい、という気持ちと自分の思う『誰にも関わらせずに』二人でいたいという気持ちは全く違うものだ。その心の狭さに差を感じて、彼女に自分は不釣り合いな存在だという事実を久々に痛感した。
彼女は俺にとって、いつまでも高嶺の花だった。みんなから好かれる彼女を自分だけの物にしてはいけない、でもしたい。そんな醜い葛藤が繰り広げられている。

「俺の部屋でいいですか?」

結局、自分の中で勝ったのは後者だった。

「うん。今日は山田の最寄り駅前のラーメンの気分でね」
「まず、俺の部屋でいいですか?夜になったらラーメン行きましょう」
「あんまりお腹空いてない?」
「いや、空いてる」

なんで、と茜さんが尖らせた唇を見ていたら、それはもう無意識に手を伸ばしていた。柔らかい下唇を親指で数回押すと、至近距離で一瞬視線が交わり合い、顔が赤く染まった気がした。その顔を俺から隠すのと同時に右腕が茜さんの両腕から解放される。身体の距離が離れるのを拒むように、茜さんの手を強く握って引き寄せた。

「今日の山田は珍しく自己主張が強いね」
「いや?」
……好き」
「それは良かった」

手から伝わる熱が心地よくもあり、もどかしくもあった。二人だけになれるあの家に早く帰りたかった。

<2>

茜さんが俺みたいな奴とも仲良くしたいと思ってくれたことが、全ての始まりだった。距離を取ろうとしても、友人のように笑顔を見せて名前を呼んでくれる。一見簡単なようで、出来る人間のが少ない難しいことをやってのける茜さんを尊敬した。いつしか目が離せない存在となっていて、日を重ねる毎に彼女に対する想いを募らせていったように思う。
しかし誰とでも仲良くする特技を持っている茜さんではあるが、彼女の中には明確に踏み入れて良い領域がそれぞれ決められているように感じる。例えば、先日の井口先輩は『まだ何も許されていない人』だ。まだ会って三回目というのだから、何も許されないのは当然と言えば当然だろう。相手に悪い印象を与えることはしなくても、相手が深く関わっても良い相手かを探っているようだった。だからこそ、井口先輩の言った『茜ちゃんをアシストするつもりだった』という言葉が腑に落ちない。茜さんはほぼ面識の無い井口先輩と何の話をしたんだろうか。
勿論、俺の場合も茜さんに初めから全てを許されていたわけではなく、段階的に進んでいった結果に今の関係がある。

まだ付き合う前のあの日、目に涙を浮かばせ熱で上気した肌を見たとき、身体の芯が疼いた。意識を取り戻してから”山田で良かった”とでも言いたげな表情を見せ、熱のせいか判断力の鈍っていたであろう茜さんは珍しく隙だらけだった。
部屋に上がることを許されたのは、瑠奈さんから呼び出され向かったあの一回だけ。熱が少し下がり、俺を視界に捕えたあと周囲を見渡した茜さんの焦り方は尋常ではなかったが、少し考えたような顔をした後に、安心した顔へと変わったのだ。
今思えば、茜さんにとってあの頃の俺は『一緒にいると安心できる無害な後輩』だったんだと思う。多少のスキンシップは許される、許してもそれ以上踏み込んでくることは無い男だと。茜さんの認識の良し悪しを判断することは難しい。その認識のお陰で少しずつ距離を縮めることを許され、結果今がある。それでも男女の関係になるはずのない男という線引きを茜さんに引かれたことを素直に受け止めるのは違うような気がして、その線を飛び越えたいという欲が芽生えたことに自分自身、驚きもした。

”ベッドから降りて”

乱れた服と赤い顔を隠すようにして紡がれた茜さんの震える声に、男として意識された喜びを隠し切れずに笑みが零れた。

”どうしてそんな顔をしてるんですか?”
”山田こそ、その目止めて!”
”目?”

その時の自分がどんな目をしていたかは定かではないが、欲望が滲み出ていたに違いない。その日以来、茜さんの態度が少しずつ変化し、手を触れること、並ぶ距離、許される領域が茜さん自身へと近付いていった気がする。付き合うことができてからも、スキンシップは段階的に。もっと先に進みたいという強い欲望を、茜さんに必死で押さえつけられていたように感じる。

では俺と井口先輩の中間の、茜さんにとって『仲の良い人』はどこまで踏み込むことを許されるのだろうか。触れること、二人で会うこと、俺と付き合う前に重ねたスキンシップまでは彼女の中での許容範囲だとすると、その領域は限りなく広い。
そんなことを、今まで考えたことはなかった。だって考える必要が無かったのだから。目の前の光景を見るまでは。

「瑛太くん」

公園の入口付近のベンチへ座る茜さんと、幼馴染であり先輩でもあり、茜さんの友人でもある瑛太さんが背を向けるようにして隣に座っていた。
茜さんは俯き、瑛太さんが背中を擦りながら顔を覗き込んでいる。体調が悪いようにも見えるし、泣いているようにも見える。すぐ二人の傍へ駆け寄ろうとしたが、茜さんが瑛太さんのインナーを掴んでいて、二人は狭いベンチの上で身を寄せ合うカップルのように見えてしまい、声を掛けるタイミングを見失った。

「大丈夫だよ、茜っちなら」
……
「一度どん底から立ち直ったんだし、もう一度立ち直るくらい何てことはないよ」
「うん」
「上手くいかなかったら、また俺が慰めてあげる」
「うん……
「何ならその嫌なこと忘れて俺とハメ外して遊ぶ?少し心に余裕ができるかもよ?」
「なにそ、れ」

すると瑛太さんは茜さんの顔周りに流れる長い髪を手に取り、ゆっくりと耳に掛けて、顔を近付けた。突然の動きに茜さんが硬直する。

”山田こそ、その目止めて!”

茜さんを至近距離で見つめるその目が、茜さんの幻聴が聴こえてくるような鋭い目付きで動揺した。次の動きに嫌な予感がして、急いで瑛太さんから茜さんを離さないといけないと思った時、瑛太さんの鋭い視線だけが、俺の姿をしっかりと捕らえていた。冗談に切り替わることのない、何を考えているか全く読み取れない目だった。

『急ぎの用があるから、俺んちの近くの公園まで来て』

俺は今、瑛太さんから呼び出され、この状況に遭遇している。これはよく、ドラマや漫画であると言われている宣戦布告というものなんだろうか。
俺よりも早く茜さんと出会い、茜さんが俺よりも早く心を許したであろう相手が瑛太さんだった。瑠璃姫というキャラを通して誰よりも茜さんの傍を許された関係だ。
背中に触れることを、髪に触れることを許され、今、男として意識されるのかを試している、そんな目だ。茜さんが今まで俺にしか許さなかったであろうその距離を、俺以外の人に許したら、俺たちの関係性はこのまま変わらずにいられるのだろうか。俺以外の人を特別に扱うその茜さんを、俺は受け入れられるのだろうか。

「こういう時は止めに入らないとダメだぞ」
「!」

その場を動けずにいると、先ほどまでの表情が嘘のように愉快に笑う瑛太さんが声を掛けてきた。遅れて俺の方を振り返った茜さんは、随分と驚いた表情をしている。

「山田!」
「こういうことは本人とちゃんと話し合ったほうがいいよ♡」
……
「何の話すか」
「恋多き女神からのアドバイス♡」
「?」
「瑛太くん、いつもありがとう」
「またね♡」
「瑛太さん、さっきのメッセージ……
「茜っち家まで送ってやんなよ」

結局先ほどまでのやりとりは何だったのか、何のために自分は呼び出されたのかも理解できぬまま、瑛太さんは足早に去っていった。
茜さんを見ると、その場から動く気配が無かったので、隣の空いたスペースに腰掛けてみることにする。そっと茜さんの顔色を伺うと、泣いているようには見えなかったが、少し気まずそうな表情をして俯いていた。

「どうしてそんな顔をしてるんですか?」
「どうしてだと思う?」
「わからないから聞いてるんですけど……
「だよね。なんか、私の心が狭すぎて、山田に釣り合わないなって思っちゃって。この前からね」
「茜さんの心が狭かったら、俺なんて心が無い奴になっちゃいますよ」

正直またか、と思った。人を惹き付ける茜さんにこそ、俺は不釣り合いであるというのに。俺は茜さんに選ばれなかったら、過去のしがらみに永遠に囚われたままだったというのに。

「まだ不安ですか?」
……
「俺が茜さん以外の人のこと好きになるんじゃないかって」
「不安が無くならないわけじゃないよ。山田はかっこいいし、優しいから、私よりも魅力的な人が猛アタックするかもしれない」
「どうしたら安心してくれるの?」
「ごめんね、私自身の問題だから」
「俺にはどうすることもできないんですかね」

茜さんは話してる間、一度も俺の方へ顔を向けることはなく、どこか遠くの先を見つめて『山田は優しいね』と呟いた。何を考えているの、という声が出る前に手を握ろうとしたとき、茜さんが顔を向けたことで初めて視線が交わった。

「暗い話しちゃってごめん。今日は山田の食べたい物作るよ!何が食べたい?」

やっと見れた笑顔が作り物であることに気付いたとき、茜さんの中から俺の許された領域を一歩遠ざけられた気がして胸がチクリと痛んだ。握ろうとした手は、茜さんの膝の上へと引っ込められ、触れることなく宙を彷徨う。意図的に避けられたことに気付くと同時に、過去の記憶がフラッシュバックする。

”いつか思い出すときに、良い女だったな、惜しいことしたなって思わせたい”

あの時救われた言葉が、自分に槍となって返ってくるとは思っていなかった。茜さんの考えていることを知りたいと思っていたのに、これ以上知ってはいけないと脳が警笛を鳴らしている。考えてはいけない。もしかしたら、茜さんは俺のことを良い思い出にしようとしてるんじゃないか、ということなんて。

立ち上がり帰路へと歩き始める茜さんを追い掛けなければいけないのに、身体が鉛のように重く、その場を立ち上がることができない。

“一度どん底から立ち直ったんだし、もう一度立ち直るくらい何てことはないよ“

瑛太さんの言葉が脳裏で木霊する。茜さんは何を置き去りにして立ち上がろうとしているのか、俺はこのまま一人、この場へ置いていかれてしまうのか。

「まって」
「?」
「待ってください」
「どうしたの?」
「一人じゃ立てない」
「ふふっ、どうして」

俺の目の前へと茜さんは戻ってきて両手を広げた。差し伸べられた両手を振りほどけないほどの強さで握る。茜さんは力を入れて俺を立ち上がらせようとするが、立ち上がる気のない俺を動かすことはできない。呆れた顔を見せて手を離そうとするから、それは嫌だと再び強く握った。

「手は繋いだままのゲーム?」
「何すかそれ」
「何で私がバカにされてるの?」
「茜さんが手を繋いでって言ったんでしょ」
「そうだったか」
「そうです」

この日の夜、俺は初めて茜さんから別れを告げられる自分の姿を想像した。心にぽっかりと穴が開き、事あるごとに彼女の影を思い出す。それはとてもとても悲しいことのように思えて、まだ別れてもいないのに胸が締め付けられた。
隣で規則正しく寝息を立てる穏やかな顔が、とても愛らしくて、同時に憎らしく感じたのも初めてだった。それでも、今日ずっと握りしめていた手を離すことはできない。眠る彼女からの握力は、もう感じられないけれど。

<3>

・執筆中

 

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