「レーン君♡」
人混みを掻き分け、待ち合わせ場所へと歩く最中、レンは背後から声を掛けられるが、振り向くことはしなかった。語尾にハートマークを付けたような甘ったるい喋り方ではあるが、その喋りに似合わない男特有の低い声に、かつてのトラウマを思い出す。
聞こえないフリをして立ち去ろう、そう瞬時に判断して待ち合わせ場所とは別の道へと足の方向を変えるも、力強く腕を掴まれてしまい、レンはその道へ進むことができなかった。
「レン君ってば!」
「……っ、なんだよ!」
「やっぱりレン君じゃん。人違いかと思っちゃったじゃん♡」
空気の読めないしつこさに、苛立ちながら振り返ると、レンが予想した通りの明るい頭髪にメガネを掛けた男が笑顔を向けて立っている。人違いを疑わない腕を掴む力強い手に、もう自分はこの男から逃げられないのかと、レンは深いため息を吐くしかなかった。
この男は瑠璃姫―――という名を持つネカマだった。過去に二度ほどトラブルを起こした相手である。
「レン君、こんなところで何してるの?」
「別に何もしてねぇよ」
「そうなんだ」
「……何だよ」
「俺ちょっと時間潰さないといけなくてさ」
過去の出来事など何も覚えていないと錯覚してしまうほどのフランクな喋り方に、レンは顔をしかめる。前回対峙した際の「もう自分のギルドメンバーには関わるな」と最後に脅しをかける腹黒さを思い出し、この男にこれ以上関わるべきではないと思った。しかし、早くこの場から立ち去りたくて腕に力を込めるも、一見非力そうに見える男の手はびくともしない。
「一人より誰かといた方がマシかなと思って。クレープ食べるの付き合ってくれない?」
「嫌だ」
「レン君、いま何もしてないって言ったよね?」
「何もしてないけど、お前と一緒にいたくはない」
「いいじゃん。クレープ嫌い?」
「嫌い」
「まぁまぁ、行こうよ」
レンが手を振り払おうと腕を動かし、声を荒らげて抵抗しても、男は涼しい顔をして動じない。
「お前、腕がいてぇんだよ!」
「騒がない騒がない」
抵抗することに疲れたレンが数分間、腕を引かれた先で見たのは、制服を着た女子高生がキッチンカーの前に行列を成している光景だった。男は当たり前のようにキッチンカーの最後尾までズルズルとレンを引きずり歩く。周囲からは好奇の目で見られている気がして、レンは不愉快な気持ちを抑えることができなかった。
「何で女しか並んでないとこにてめぇと二人で!」
「レン君、何が好き?」
男は声を荒げるレンの言葉が聞こえていないのか、メニューを見ながらクレープの好みについて話を振ってきた。レンはこの男にこれ以上何を言っても仕方がないことはわかっていながらも、男の思惑通りにクレープを食べることはしたくないと思ってしまう。
「俺、甘いものは食わねぇし」
「苺? バナナ?」
「……」
「チョコは好き? 生クリームは?」
「はぁ……」
「俺はね、チョコも生クリームもすき♡」
「ああそう」
適当に相槌を打っていると、そろそろ自分たちの順番が来たことにレンが気付く。いつの間にか腕の拘束から解放されていたことにより、レンと男との間には不自然な空間が生まれていた。甘党の男は注文が決まらないのか、メニューを眺めたまま悩んでいるようだ。
「オイ、順番くるぞ」
「……」
「オイ」
先頭の客との不自然な距離を気になったレンが、男を二度呼んだところで、男はメニューからレンへと視線を移してニッコリと微笑んだ。
「オイじゃない。瑠璃って呼んで?♡」
「はぁ?」
「るーり」
「呼ぶわけねぇだろ!」
なぜ男相手に可愛らしい名で呼ばないといけないんだとレンは怒鳴るも、もしかしたら男であっても本名である可能性が少からずあるのかと思い直す。名を呼ぼうとしないレンの反応に少し不貞腐れたような顔をして男は言葉を続けた。
「えー。じゃあ瑛太♡」
「チッ」
結局「瑠璃」は偽名だったと分かったレンは、思わず舌打ちをする。なぜ仲良くもない相手を下の名前で呼び合う必要があるのか理解ができず、瑛太の言葉に応えることはしなかった。
「後ろの人、お前が進むの待ってんだろ」
「えいた」
「……」
「え、い、た」
「いや名字教えろよ」
「こんなまだまだ浅い関係じゃ、名字は教えられないな♡」
普通逆だろ、とツッコむ気力はこれまでのやりとりからレンには残されていなかった。
会話に飽きたのか、瑛太はレンを通り越し注文口の前へ行くと、店員に様々なトッピングのついた長い名前のクレープを注文した。瑛太は自分の分の注文が終わると、レンの注文を確認する。
「レン君、好きなの頼みなよ。奢ってあげる」
「当たり前だろ……。コーヒー頼んどいて」
「はぁ? クレープでしょ?」
「甘いモン嫌いって言っただろ」
「レンくんノリ悪い〜♡」
結局、頼んでもいないクレープを手渡されたレンは渋々それを口に含んだ。その味は思ったより控えめな甘さな気もするが、一口腹の中へと入れたクレープをレンはしかめっ面で瑛太へと差し出す。
「甘ぇ」
「たまにはいいでしょ」
「コーヒーも無いのに食えるかよ」
「えー」
結局レンは、瑛太の口車に乗せられて最後の一口まで自分で食べることになった。
「あ、もう時間だ、怒られる。レン君、またね」
「もうお前には会わねぇよ」
「このカフェのコーヒー美味しいから、今度暇なときにでもどうぞ」
ペラペラの無料券を手で握らされて、瑛太は嵐のように去っていった。クレープ屋の前で一人残されたレンも、周囲の女たちから声を掛けられる前にその場を去る。
口の中が甘さで支配されたレンには、瑛太から手渡された無料券がとても魅力的に感じた。憎き瑛太からの貰い物ということは少々引っ掛かるが、コーヒーに罪はない。
スマホには何十件もの着信履歴と、その相手が待ち合わせ場所にはもういないことを告げていた。
予定もなくなったことだし、とレンはここからそう遠くないカフェの場所を調べることにした。レンが疲れた心の癒やしを求めたそのカフェで起こった出来事は、また別のお話で―――。
つづく
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