昨日、自分の左手に描かれた逆さまのゲームキャラは薄っすらと色を残していた。
「なにこの絵?」
「誰に描いてもらったの?」
”知り合いに油性ペンで描かれて落ちなくて”、と何度目になるかわからない定型文を返して窓の外へ視線をやると、どこの誰か知らない女たちは去っていった。今日はやたらと知らない人から声を掛けられる日だった。
「この絵柄は男が描いたようには見えないっていうのと、手に可愛い落書きしてる今日なら仲良く話せるかもと思ったのと、その二択とみた」
「なにが?」
眠い目を擦りながら、休憩時間も窓際の自席へ座っていると、いつの間にか自分の前の席へと腰かけていた岡本が意味の分からない話を振ってきた。
「今日、お前がいつも以上に話しかけられる理由、ソレ」
「ああ」
岡本に指さされた左手を見てため息を吐く。いつも以上に話しかけられてこんなにも煩わしいなら、ちゃんと消してくるべきだったと少し後悔した。油性ペンを取り出したゲーム仲間の手を振り払うことなく、されるがままに描かれていた、この絵を。
「知り合いに油性ペンで描かれて落ちなくて」
「それ今日何度も聞いたわ!そうじゃなくて、そんな可愛い絵、お前らしくないじゃん」
「……」
手の甲に描かれた武器を持ったキャラクターが、私とお前は不釣り合いだと言ってきているようで憎らしい。昨日椿さんと会った後、まっすぐ帰宅して、手の甲を軽く撫でるようにして手を洗った。今日何度も口にしている”油性ペンで描かれてしまったから”、そんなものは言い訳に過ぎなかった。
”つまんなくないよ、面白いって言ったじゃん”
励まそうとしてくれた言葉と、太陽のような笑顔と、そして左手に触れた手の感触が昨日からずっと頭を離れない。この絵を見ていると昨日の出来事を鮮明に思い出すことができるような気がしていた。
「はぁ……」
「悩みならいつでも俺が聞いてやるからな」
「……人と、仲良くなるには?」
自分よりも人との交流が盛んであろう岡本に答えられそうな質問を選んで告げた。すると岡本は目を輝かせて、誰と仲良くなりたいんだ、としつこく聞いてきたので、その質問をしたことを後悔してイヤホンを耳に挿すと、これも岡本の手によってすぐに外されてしまう。
「それはズバリ!相手のことをよく知ろうとすること!」
「……?」
「俺はお前のことを良く知っているから、癖のあるお前の数少ない友人の一人なのである」
何を言っているのかよく分からなかった。それでも岡本はその相手と話してこいとしつこいので、教室の外へ出てスマホの通話履歴の上部にいた名前をタップして電話を掛けてみることにした。何度目かの呼び出し音の後、無機質な音が途切れて相手と繋がったことを知らせてきた。
『はいはーい!どうしたのー?』
「……」
『山田?』
自分から電話を掛けておいて、何を話せばいいのか分からなくなってしまう。いつも、電話するとき何て言って話を始めていたっけ、なんて考えているとスマホ越しに焦った声が聞こえてきて、早く何かを発しなければと思うのだった。
「あの、茜さん」
『あ、良かったちゃんと山田で!いたずら電話でもされてるのかと思ったじゃん!』
「すみません」
『何か急ぎの用事でもあった?』
やはり急ぎの用でもなければ電話は掛けるべきではないのだろう。自分に置き換えても、用件が無いときに電話を掛けるといったことはほとんどしたことがなかった。なぜか瑛太さんや茜さんは用も無く電話を掛けてくるが、いつも用件は何だと自分は確認している気がする。
「ありません」
『ん……?あ、もしかして山田暇なの?今日学校休み?』
「いや今休憩時間です」
『あ、学校なのね。私もお昼休み中だよ』
特別会話も思い浮かばないままでいると、いつものように茜さんが話題を探して振ってくれる。
『山田、今日FOSログインするー?結局私の装備見てくれてないでしょ!』
今日は塾があるもののチームの練習が無いため、これまでの睡眠不足を解消しようと早く寝るつもりだった。
「……します」
『ほんとー?じゃあ夜楽しみにしてるね』
「茜さんの描いた絵が、まだ落ちないんすけど」
『え!私そんなに強く描いたっけ?あ、呼ばれてる!もう行かなきゃ!』
あっという間に会話が終了してしまった。慌ただしく通話を切られても、まだ繋がっていたくて、余韻に浸っていたくて耳にスマホを当てたまま廊下の壁に体重を預けた。手の甲に描かれた絵が未だ消えないように、声が、笑顔が、一向に自分から剥がれてくれない。
* * *
INギルドルーム
System:山田がログインしました
PM10:15 瑠璃姫:山田くんやっほー♡
PM10:17 山田:どうも
PM10:17 瑠璃姫:久しぶりだねー♡元気にしてたー?♡
PM10:19 山田:はい。茜さんは来てますか?
PM10:20 瑠璃姫:今日はまだ来てないよー♡バイト終わったら来るって言ってた♡長引いてるのかな?♡
PM10:21 山田:そっすか
PM10:21 瑠璃姫:そんなに気になるなら電話してみたらどうかなー?♡ 21時までって言ってたからもう帰り道だと思うよ♡
System:Akaneがログインしました
PM10:21 瑠璃姫:噂をすればあかねっち♡バイトおつかれさま~♡
PM10:21 Akane:瑠璃姫ちゃんありがとう!おまたせ!
PM10:21 瑠璃姫:遅かったね♡残業?
PM10:22 Akane:上がる間際に変なお客さんに絡まれちゃってさ!時間潰してから帰ってきたんだ!
PM10:22 瑠璃姫:えっ?大丈夫?♡ そういうときは呼んでよ~♡送り迎えくらいするんだからっっ♡
PM10:22 Akane:ありがとう~!また充電切れててさ!
PM10:23 瑠璃姫:山田くんも心配してたんだよ♡
PM10:23 Akane:えっ!山田が!?ほんとに来てくれたんだねー!
PM10:23 瑠璃姫:あれ?♡あれ?♡ 何か約束してたの?♡
PM10:23 Akane:この新しい装備、見に来てって言ってたの!
PM10:24 山田:ちす、絵まんまっすね
PM10:24 Akane:でしょー!レベルも上がったんだよ!!!
PM10:25 山田:なんかあったら呼んでください
PM10:25 Akane:うん!ありがとう!でもまずは一人で頑張ってみる!
PM10:25 瑠璃姫:あかねっち♡多分、今の山田くんの呼んでは迎えに行くって意味だよ♡ね?♡
PM10:25 Akane:あ!!!そっちか!!!ありがとう山田!
PM10:25 瑠璃姫:それよりさ、週末のイベントのことなんだけど・・・♡
PM10:25 Akane:その話したかったの!
”また働きすぎて風邪でもひいt”
返信を考えて、打ち込んでいる間に、瑛太さんと茜さんの会話はどんどん進んでいき、別の話題へと移ってしまっていた。文章を消して、これ以上茜さんと会話をせずにギルドチャットから退出する。基本的には茜さんから連絡が来たり、誘われたりしていたものだから、いざ自分から仲良くなるために接触しようとしても何から行動すればいいかが分からない。
結局、茜さんのことを知ろうにも、茜さんは行動が危なっかしいということを再認識しただけだった。そういえば、初めて茜さんの家を訪問したときも、相手を確認することなくドアを開けていたことを思い出して、自然とため息を吐いてしまう。悪意を持った人間だったらどう対処するつもりなんだろう。例の元カレが非道な人間だったら、部屋に入り込み傷つけられていたかもしれない。弁当箱を5つも溜め込んで返却しに来たというお騒がせな人間だったから良かったものの。
思考があらゆるところへと派生し、茜さんの元カレについて考えていると、お弁当箱というワードが頭の中で引っかかる。キッチンへ向かうと、茜さんから渡されたタッパーやらお弁当箱がいくつもあり、人のことを言えないくらいに溜め込んでいたことを思い出した。
そしてすぐに、”返しにいかないと”、そう思った。この時間に行ったら迷惑ではないか、とかそんなことは考えなしに、今行かなければいけない気がして、急いでタッパーをその辺にあった紙袋の中へと入れていく。先ほどまで塾へ行くために着ていたダウンコートを再び上に羽織ると、家を飛び出した。
* * *
”ピンポーン”
チャイムを鳴らしても前回のようにすぐに応答はなかった。部屋の中でまだゲームをしているはずなのに、そう思い時計を確認すると、23時を回っている時間だった。もしかしたら既に寝ているのかもしれないからまた別日に返しに来よう、そう思った矢先に微かに部屋の中から足音のような微音が聞こえてきた。今回ばかりは警戒しているのか、そう思いドア越しに声を掛けてみる。
「茜さん、俺です」
”ガチャッ”
すると勢いよくドアが開いて、パジャマ姿の茜さんが目の前に飛び出してきた。
「山田ぁぁぁ!びっくりさせないでよぉぉぉ!」
「すみません」
半泣き状態で両腕を掴み縋りついてきた茜さんの勢いに圧倒されて尻込みしてしまう。
「今日変な人いたって言ったじゃん!だからその人だったら、とか色々考えちゃったじゃん!」
「まさか家知られたんですか?」
「後ろ気にしながら帰ってきたから、多分着けられてはないと思うんだけどね」
普段からこのくらい警戒心を持って生活してほしい、と思った。きっと数日後には忘れてしまっているだろうけど。
「ところでこんな時間にどうしたの?」
「あぁ、何か突然お弁当箱とか溜まってきてたことを思い出して」
「え!こんなのいつでも良かったのに!」
「いや、どうしても今」
―――会わなくちゃいけない気がして。
目の前には涙を流す茜さん。多分相当怖かったんだろう。一人暮らしで、頼る大人も傍にはいなくて。
「大丈夫ですか?」
「だいじょうぶ」
そう口にしながらも両腕は離そうとしない。こんな時くらい、強がらなくてもいいのに。そっと抱きしめたい衝動に駆られたが、両腕は茜さんによって拘束されてしまっているため叶わず。家に上がってと見上げてきたので、逆らうこともできず従うことにした。
「いやね、なんか今日はあんま眠れない気分だったし、でもさっき瑠璃姫ちゃんログアウトしちゃうし、山田も気付いたらいなくなってて」
先ほどまでの雰囲気とは打って変わって、ペラペラと一人喋り続ける茜さんに部屋を通される。座椅子に座らせられると、茜さんはココアを入れて俺の隣へと腰かけた。
「ちょうど山田に電話しようと思ってたんだよ」
「なんで俺に電話するんですか?」
「え…と、何でだろう」
自分で言っておいて、何で理由もわからないんだろう、と日中の自分の失態は棚に上げて質問した。
「んー話を聞いてくれるからかな?」
「俺の声に催眠効果でもあるんですか?」
「へ?」
”用件っていうか、声が聞きたかったの”
「前も言ってたじゃないすか、声聞きたくなったって。あの意味を考えてたんすけど」
「あ?ああアレ!?そうそう山田の声聞くとスッと眠りにつけることに最近気づいてさ」
「そうすか」
「アハハハ」
不自然な笑い声を上げる茜さんに内心がっかりする。期待していた返答を貰えるなんてことがあるはずないのに。恋愛すると人間はこうも欲深くなるものなのかと自分自身にため息が零れ出た。
「用件もないのに電話されるのは迷惑?」
「え?」
せっかく泣き止んだのに、再び目には涙が溜まっているように見えて、動揺を隠せない。
「そんなことはないですよ、瑛太さんからも深夜にバンバン来ますし。さすがにそれは迷惑ですけど」
茜さんなら―――そう続ける前に、眩しい笑顔で返されて何も言えなくなってしまう。茜さんの目線が自分から外されると、突然左手を掴まれた。
「ほんとだ、まだ消えてないね」
「?」
「私の絵」
親指でなぞられた手の甲に全意識が集中するのを感じた。自分のキャラクターを愛し気に見つめる茜さんの視線と指先に勘違いしそうになる。心拍数がいつになく高くなるのを感じて、気を紛わせることはないかと考えても、左手にばかり気を取られてしまう。
「また描きます?」
「えっいいの?」
「そんなに描きたいなら……別に」
結局、手はそのまま茜さんと繋がっていた。昨日描かれた線をなぞられているだけなのに、昨日よりもくすぐったく感じるのはなぜだろう。
「なんか山田を独占してるみたい」
「…そうすか」
「優越感」
手に再び描かれた茜さんのキャラクター。自分の一部に茜さんがいるような感覚に、独占されているのはあながち間違っていないと思った。おまけに最近は思考まで占領されている。こんな自分のような汚い感情を抱いている人間が、茜さんの周りにはどれくらいいるんだろう、と考え始めて嫌悪感に包まれた。
「俺なんて独占したところで茜さんにとって良いことなんて何にもないですよ」
「またそうやってネガティブ思考になって」
「……」
握られたままの左手をお互いの顔の前まで持ってこられて、茜さんの両手に左手が包まれた状態になった。
「今日も、私山田に助けられちゃった」
「なにを」
「一人でいたくないほど今日怖かったの、山田に電話しようと思ったのもそれが理由。山田の声を聞けば嫌なことも忘れられると思ったから」
いつもの元気いっぱいの笑顔ではなく、儚げな茜さんの微笑に落ち着かなくなって、空いた右手で背中を摩った。茜さんは、こんな時でも俺なんかのことを気遣って、言葉を選んでくれる。
「山田、今日は一緒にいて…?山田に、いてほしいんだ」
「……」
胸にもたれ掛かってくる茜さんの背中を摩り続ける。左手は茜さんの両手と繋がったまま。この繋がった手から、想いが全て伝わればいいのに。
伝えたいことは一つだけ。
”好きです”
周囲に心配かけまいと気丈に振舞うところも、寂しがりやなところも、もちろんいつもの明るく包み込んでくれるのも、茜さんの全てが。
いつまでこの気持ちを隠せばいいんだろうか。いつになったら伝えてもいいんだろうか。どちらにせよ、会話の弾まないような自分よりも、茜さんに相応しい人間はきっと五万といて。だからきっと想いが繋がることはないのかもしれないけど、それでも変わらず接してくれるだろう、茜さんはそういう人間だ。
もういつバレてもいいのかと腹を括れば少し気持ちも落ち着くものだ。寝息が聞こえてきたので、茜さんを抱きかかえて立ち上がり、ベッドまで運ぶ。このままもう寝るのであればと、布団を被せて明かりを落とした。その間も左手は繋がれたまま。
茜さんの長い髪が顔を覆い、呼吸を妨げているようだった。眉間に皺を寄せた寝顔が愛くるしい。そっと右手で髪を払うと、暗闇の中でも顔のパーツがはっきり見てとれた。
いつもパクパク喋る口が半開き状態でいるのが珍しくて目が離せない。下唇を指で摘まむとより眉間の皺が深くなっていって、その反応に珍しく好奇心が湧いていく。人差し指を隙間に軽く押し入れてみると、唸り声を上げた茜さんに噛みつかれる。
「イテっ」
思った以上に強い一噛みに血が出てきたので癖で血を舐めてハッとした。そこからはもう色々抑えられなくなってきていて、気付けば顔を近づけてキスをしていた。左手は繋がったまま、体重をかけないように、両足の間に片膝を、茜さんの頭の横に右手を置いて。
そろそろ止めよう、を繰り返して茜さんの唇を啄むと、さすがに異常を感じ取った茜さんが薄っすらと目を開けた。言い訳なんて何もなかった。ただ、そうせずにはいられなかったというだけだ。
「すいません、何かどうしても抑えられなくて」
「……山田」
拒否されるわけでもなく、自分の名前を呼んだかと思うと茜さんの空いている手が首に回された。まるでキスを強請られているようだ、と自分の都合の良いように解釈して、取り憑かれたように唇を貪った。
いつのまにか再び乱れていた髪を直しながら頬に、耳に触れるように撫でると、茜さんはく甘い吐息と共にすぐったそうに身体を捩った。その姿に興奮を覚えて、咄嗟に身体を起こしベッドから飛び降りた。
火照った身体を冷ますと徐々に思考が冷静になっていく。調子に乗りすぎたようだ。散々危機感が無いとか、元カレが非道だったらとか仮定話で茜さんを責めておいて(心の中で)、自分が許可も無く身体に触れてしまった。それが受け入れられたとしても、眠っている間にそんなことをしてしまっては信用を失うだろう。一瞬受け入れられたとしても、だ。きっと寝ぼけていたにちがいない。
翌日まで手を離さずにいたが、茜さんが目覚めると昨夜の罪悪感から顔を見れなくなってしまった。”何かあれば連絡ください”と伝えてそそくさと自宅へと戻る。それから特別連絡が来るわけでもなく、だからと言ってこちらからできるわけでもなく。手の甲に描かれた絵が綺麗に消え去ってしばらくした後、瑛太さんからギルドミーティングを知らせる一通のメッセージが入った。
久しぶりに茜さんと会う機会が決まり、どうしようもなく心がざわついていた。
おわり
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