「もう私のことなんか放っておいてよ」
「茜」
イルミネーションの灯りが点き始めた駅前で、どこにでも居るような男女がなぜか視界に入ってきた。多分それは、最近良く耳にする女の声と、男の呼んだ名前に反応してしまったんだと思う。
女は手で顔を隠していて、いつもの明るい声とは正反対で暗く震えた声をしていた。そんな女の肩に両手を置き心配そうに覗き込んでいる男は、顔までは確認できなかったが、緩いウェーブのかかった茶色い髪をしていて、過去に2回だけ会ったことのある人物な気がした。
「茜さん」
本来であれば他人のいざこざには介入しないようにしていたが、最近色々と世話になっている(しているとも言える)人が困っているのを通りすがるのは気が引けて、女の名前を呼んだ。
俺の声に反応した女・茜さんは瞬時に顔を上げ、パァっと眩しい笑顔を向けて俺の名前を呼び返す。
「山田!」
茜さんは少し離れた位置にいた俺に小走りで近づくと、ガシッと手首を掴んで拘束してきた。あまりの力強さに茜さんを睨むと、ゴメンゴメンと言って手首を握る力を弱める。弱めただけで離してはくれないらしい。
「えっ!山田さん!?」
そんな茜さんとのやり取りを見ていた男も急いで駆け寄ってくる。この男は茜さんの元カレで、なぜかファンだと遭遇する度に言われていた。茜さん以上の声のボリュームが頭に響き、この人は苦手だと毎回思ってしまう。
「そういうことだから、もう話は終わり!じゃあねたくま!」
「山田さん、良かったらこの後、俺達と一緒に飯でもどうすか!?」
嫌だなと思って、俺達の「達」であろう茜さんの表情をチラッと確認する。表情豊かな茜さんの今の表情は「ウザい、消えろ」と言っているようだった。ここで自分一人で帰るには後が恐ろしいので、茜さんと二人でこの男から離れることを考えようとしたが、既に二人のバトルは勃発していた。
「ちょっと!山田は私と帰るんだから!」
「お前は黙ってろって!お願いします、山田さん!!!」
男からは茜さんから掴まれている方とは反対の腕を掴まれ、懇願されてしまう。正直、茜さんに声を掛けたことを激しく後悔していた。この男の熱意を断る労力のほうが大きいことを察して、今晩のゲームを諦めて嫌々二人に着いていくことを決める。
「……まあ、ちょっとだけなら」
「えっ!山田帰ろうよ」
「やったー!山田さんとメシー!」
両腕を左右に引っ張られたまま、駅のガードレール下の飲食店街へ連行される。服が伸びるから止めてほしい。そう伝えても聞く耳を持たず話し続ける男と、ブツブツ愚痴を言いながら頬を膨らませる茜さん。長くなりそうな夜に大きなため息が零れ落ちた。
* * *
「茜はビールでいいよな?山田さんは何飲みますか?」
「俺は…コーラで」
この男は俺のファンだと公言しているのに、未成年なことを知らないのか、迷うことなく居酒屋へと連れてこられた。酒を飲む前からハイテンションな男に未成年と伝えるのも億劫で、しれっと男に付いていくと年齢確認もされずに席へと案内される。
先に席へと着いた男とは一定の距離がほしくて、向かい合わせに座ると、茜さんが俺の隣に座った。茜さんはしばらく元彼に対して負のオーラを発信していたが、ビールが運ばれてくると徐々に警戒心を緩めていくのが見て取れた。
昨日の生配信はどこが良かったとか、普段はどういう生活をしているのかだとか。飲み物を飲みながらしばらくそんな話を男から一方的にされる。横に座らなくともうるさいことには変わりなかった。どうせ酔っ払って記憶もないだろうから、と適当に返事をする。
「茜が作ってくれた唐揚げ美味かったなー」
テーブルに注文した唐揚げが置かれると、男は唐揚げを見てポツリと呟いた。茜さんは一瞬眉をひそめるような顔を見せたが、すぐにすました顔に切り替えると口を開く。
「どーせ今の彼女にも色々作ってもらってるんでしょ」
「いやぁ、今の彼女は料理が得意じゃないみたいだから。たまに一緒に作るくらいで」
「ふーん」
人の気持ちに鈍感と言われる自分でさえも、空気が重くなるのを感じ取った。多分、男の彼女とは茜さんにとっては元彼の浮気相手だ。散々出会った初日の居酒屋で聞かされた。男は鈍感なのか、茜さんを気にせず彼女と作った料理名を挙げる口が止まらない。
(―――今すぐ帰りたい)
二人を置いてここを離れてしまおうかとも思ったが、出会った頃にこの男への未練が溢れていた茜さんを思い出して、隣に座る彼女を盗み見た。茜さんの表情からは悲しそうな感情を読み取ることはできなかったが、傷付かないはずがなかった。
無造作にソファーに置かれた茜さんの右手に、自分の左手を重ねてみる。なぜそうしたのかは分からないが、心細そうな彼女を少しでも安心させてあげたいと思った。
指を絡めてから、何だか気恥ずかしい気持ちが湧いてきた。隣にいる茜さんの顔を確認することは躊躇われたが、今更手を離すほうが恥ずかしい気がして、顔を反らした。少し火照った身体を冷ましたくて、右手に持ったコーラを飲み干す。
「山田さん!こいつの作った料理めちゃくちゃ美味いんすよ!」
「……知ってます」
この男は先ほどから茜さんのことを良く知った風に話をする。付き合っていたのは過去の話で、この男は茜さんを振ったというのに。まだ自分の物であるような口調に反抗心が芽生えていく。
「え!お前山田さんにご飯作ってあげる仲なのか!?」
「……」
「彼氏って言ったじゃないすか」
男からの問いかけに黙り込む茜さんに少し苛ついて、左手に力を込める。彼氏役をしろと言ったのは彼女であって、俺はその言いつけを未だに従っているだけに過ぎない。自分で決めた設定くらいは徹底してほしい。
「え?あれはこいつの嘘ですよね?」
「嘘じゃないっす。ね、茜さん?」
茜さんのほうを見ると、彼女は顔を真っ赤にしてこちらを見ていた。出会った初日に居酒屋へ付き合わされた時も同じような肌の色をしていた。酒に強くないのになんで酒を飲むんだと呆れてしまう。
「え……山田さんの彼女が茜……?嘘だ……山田さんに女の陰なんて全く……」
「そ、そうよ!前に言ったでしょ?」
男が何にショックを受けているかわからないが、茜さんが調子を取り戻して天狗になり始めたのだけはわかった。このまま言い争いになって解散と言い出してほしい―――。
残念ながらそんな俺の願いは叶わず、二人の言い争いはヒートアップしていく。元々大きな二人の声は、酒が入って更に大きくなっていく。周りの席の客がこちらを見ているほどだ。無視しようにも、あまりにも大きいその声は頭にガンガン響いてくる。
「嘘だ……山田さんの彼女はもっと知的で美女で……」
「ちょっと!殺されたいの!?」
言いたい放題言ってる二人に心の中で反論する。ちがう、茜さんが俺には釣り合わないんじゃなくて、俺なんかが茜さんには到底釣り合わないんだ―――。
「茜さんは、俺には勿体ないくらい魅力的なんすけど」
思わず口に出していた。すると、目の前の男のとても驚いた顔を見たのを最後に、急に視界がボヤけて何も見えなくなった。居酒屋特有の雑音が頭に響いている。身体が熱くて姿勢を保っていられない。
「山田!!!」
「山田さん!!!」
「これコークハイじゃない!ちょっと店員さーん!」
真っ暗な視界の中で、茜さんの慌てた声と、左手の温もりだけを感じて、俺は意識を失った―――。
* * *
目を覚ますと見慣れない天井が目に入る。そうだ、茜さんたちと居酒屋に行って頭痛がしたと思ったら。意識を失う前の記憶が少しずつ蘇ってくる。
「あ、起きた?」
聞き慣れた声に、今自分がどこに居るのかを把握した。ここは何度か訪れた茜さんの部屋だった。
「いつかとは逆だね」
そう言って俺の顔を覗き込んできた茜さんは、まるで俺の弱みを握ってやったと言わんばかりの悪い顔をしていた。
「大丈夫だよ、一夜のあやまちとかないから」
ーーーそんなことあってたまるか。
当時は面倒くさいから関わりたくなくて、早く出て行って欲しいと口にしたことを思い出す。そんなことを俺が思い出しているとも知らない茜さんは、何が可笑しいのかケラケラと笑っていた。きっとまだ酒が残っているんだろう。
起き上がらずに部屋全体を見回しても、あの男がいる気配は無く、部屋には二人きりのようだった。ホッとしたのも束の間で、また頭痛が襲ってくる。今までにない不調に戸惑いを隠せない。これまでの人生で大きな病気をしたこともなかったのに。
「クソ頭痛い……」
「あ、山田お酒飲んじゃってたみたいで」
頭痛の原因が判明し、まずは安堵する。どうやら俺がコーラだと思って飲んでいたものは酒だったらしい。まあ慣れだよ、と言って茜さんが大人ぶって笑ったのが気に入らなくて、少し睨む。
「ごめんね。たくまが居酒屋なんて連れて行くから」
「茜さんもですけどね」
「私はあの時、山田が高校生って知らなかったからさ」
頭が痛いなら大人しく寝てて、と自分の醜態話を避けるように俺の目元に手を乗せてきた。ひんやりとした手が心地よくて、言われた通りに目を閉じる。頭痛は少しずつ引いてきたようだった。
このまま眠りに付けるかと思ったが、なかなか眠りに付くことができない。既に茜さんの手は俺の目元を離れていて、ベッドに背中を預けて膝を抱えて座っている。そこで初めて、自分が茜さんのベッドを占領していたことに気付く。他人のベッドで眠ったことなど無かったが、布団から茜さんの匂いが香ってきて急に落ち着かなくなる。
心臓の音がやけに良く聞こえるので、二十歳になってもお酒を飲むことは無いだろうなとぼんやり考える。気を紛わすように、今日ずっと気になっていたことを茜さんへ尋ねてみることにした。
「なんであの人と一緒になんかいたんすか」
「ーーーたまたまばったり会っちゃってさ」
先ほどとは一転して冷めた声にしまった、と思った。茜さんが一番気にしているであろう話題を振ってしまったことを今更ながらに後悔する。こちらに背を向けているからどんな顔をしているかは分からない。少しの沈黙が続き、何て返そうかを考えている内に彼女の方が話を続ける。
「本当に勝手だよね。自分で振っておきながら、罪悪感で私のこと気になっちゃうんだって」
そう言われて思い出すのは幼い頃の少女との記憶。彼女の泣いた姿は数年経った今でも鮮明に覚えていた。
「それは、まぁ分からないわけでもないですが」
「えーわかっちゃうんだ。まあたくまも山田も根は優しいからな。まあ、全く思い出されないよりかは幸せなのかもしれないね」
そう言って俺のほうへ身体を向けた茜さんは笑っていた。辛いはずなのに、心配させまいと元気を装っている茜さんを見るとなぜか胸が締め付けられるように痛くなる。
「まだ夜中だからそのまま寝てたらいいよ、水持ってくるね」
そう言われて初めて、喉が乾いていることを自覚した。乾いて乾いて仕方がない。でも茜さんにこの場を離れて欲しくない。立ち上がる茜さんの腕を掴もうとして空振ってしまう。彼女は忙しなくキッチンの方へと向かう。水を入れて戻ってくるまでの時間がとても長く感じた。
「はい。飲める?」
こんなに魅力的な彼女のことを、あの男はどこまで知っているんだろう。どのくらいの期間付き合っていて、どこへ行って、何をして過ごしたんだろう。簡単に彼女に触れたのだろうか。この柔らかそうな唇にも―――。
「茜さん」
そんなことを考えながら、戻ってきた茜さんの腕をしっかりと捕まえて。引き寄せられるように顔を近付けて口付けると、目の前には茜さんの驚いた顔があった。
何度かその柔らかさを堪能して、気が少し晴れてから顔を離すと、茜さんは口をパクパクさせて明らかに様子がおかしかった。
「なんかしたくなってしちゃいました。スミマセン」
酒って怖いな、そんなことを思っていると急激に睡魔が襲ってきたので再び眠りにつくことにした。
「茜さん、おやすみなさい」
「や、や、やまだぁぁぁぁ!!!」
翌朝、なぜか不機嫌な茜さんに美味しい朝食を作ってもらって帰宅した。
END.
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