監獄での誓い

微かな灯りと、警備の騎士らが会話する声しかない場所に男はいた。これまでの人生の中で初めて身に纏う布切れのような服と、最低限の生活に必要な物だけが取り揃えられた場所ーーー即ち監獄で、刑種が確定するまでの間、残された僅かな時を過ごす。

監獄の中へ閉じ込められた男、アナスタシウスは、不安や絶望といった感情に支配されている訳ではなく、むしろ安堵していた。やっと、己の脳、そして身体を侵食していた存在に解放されたからだ。悪魔の声と己の中の良心とがせめぎ合うことはもう無い。残すは悪魔の声に従って犯した数々の罪を受け入れ、死を待つのみ。

死を受け入れた男の心は穏やかだった。ある一つの心残りを除けば。

「お……とうさん」

地下牢には似つかわしくない少女の高い声を耳が拾った。男はこの光景が訪れることを微かに予想していて、深いため息を吐くと、重い腰を持ち上げる。そして娘であるジェニットのいる柵へと足を運んだ。

「こんな場所へ何しに来たんですか?」
「あ、その……
「君も共犯だと疑われてしまうよ」
「でもお父様だって……悪い人ではないですよね?」

その言葉を受けた男はジェニットの顔を凝視する。娘の真意が全くわからないからだ。娘は真剣な顔をして、真っ直ぐに男を見た。それはまるで、父の潔白を信じ切っているようにも見える。

「どうかな。ジェニット、君は人を簡単に信用しすぎるから少し心配だ」
……
「出会ってすぐの私をすぐに信用して、その隙につけ込まれたことをもう忘れてしまったの?」
「お父さん……
「君はとても利用しやすかった。私の話は何でも受け入れ、二人の秘密と言えば目を輝かせた。私が誰なのかを疑うこともなく」

男は娘をわざと突き放す言葉を選び、彼女が本来あるべき場所で健やかに生きていくことを望んでいた。彼女が育った場所には、口煩いが身体を張って彼女を守ってくれる主がいることは男自身の目で確認済みだ。

しかし、娘は男の鋭利な言葉に怯むことなく、拳に力を込めて口を開いた。

「確かに、姫様からの愛を望み、疑った私は脆い存在だったでしょう」
……
「でも今は違います。たとえ誰かが私の行動を間違えていると指摘することがあっても、私の中で導き出した答えなので……だから」

アルフィアス邸で交流を重ねていた時は、大人の言うことに疑問の表情を隠すことはしなくても、己の意思を貫き通すことはなかった。それがこの一連の騒動の中で、アタナシア姫を筆頭に外部との接触を繰り返していき、彼女の世界が広がっていった。彼女なりに考えることと主張することを学んだのだろう、と男は感心する。

「マグリタ様、そろそろお時間です」

見張りの騎士が親子に与えられた時間の終わりを告げる。男は最期に一皮むけた娘の姿を見れて良かったと心から思った。

血を分け、僅かな時間で情を移してしまった娘との別れに少し名残惜しい気持ちを抱きながらも、その父性かも分からない不思議な感情を受け入れる。

「また、明日も来ますから」
「もう来てはいけませんよ。お元気で」

娘は騎士に連れられ地上へと繋がる階段へと向かう。一度、男のほうへ振り返った顔は、不安を隠し切れておらず、そんな娘を安心させるように男は笑顔を作って手を振った。

こうして目の前から灯りが消え、男は本来あるべき懺悔の時間を再び過ごすことになる。

***

「お父さん」
「なんで来るかな……

男の中では最期の別れを済ませたはずだったが、あれから数日経った今でも娘は地下牢にいる父親の元へと足を運んでいた。

男の処遇を決定する裁判は、騒動の収束が優先されているのかまだ男は地下牢の中から出られていない。しかし、それも今日で終わりだ。今朝、裁判が明日に決まったと告げられ、男はやっと審判の日が訪れたことに安心する。地下牢へ投獄される前から既に死を受け入れていた決心が、娘と話をしていく内に日に日にぶれていき、最近は気が可笑しくなりそうだったからだ。

「今まで一緒に過ごせなかった分、家族と一緒にいたいと思うのはおかしいことですか?」
「うん、おかしいね。前にも言ったかもしれないけど、愛情は無限ではないんだよ。君とは十五年、一度も会わなかった。そんな人間にいきなり父性が芽生えると思う?」
「姫様も陛下との親子関係は突然始まったとお話してくれました」
「それでも、親子の期間は俺らより長いだろう?」

同じような押し問答を二人は数日間繰り返している。父親であることを認めさせたい娘と、愛情は持ち合わせていないと主張する父親。初めは罪人の会話に聞き耳を立てていた監視役も、その内呆れて聞き流すようになった。

「あの時、陛下の攻撃から私を守ってくれたのは」
……俺はクロードが嫌いなんだ。今ならそれが君にも分かるじゃないか」

皇族の暗殺を目論んだ者の行く末は死刑のみ。数日後にはこの世からいなくなる、ただ血の繋がりだけのある「父親」という存在に依存して、娘が傷つくことは目に見えている。

自分が死を迎えた時、娘を支えてくれる人間がどれだけいるだろう、と男は考えてすぐに自嘲した。男は自分が考えるよりも娘が強いことをもう知っている。そして、自分がその存在に救われたように、彼女が誰からも愛されるべき存在であることは間違いない。きっとすぐに罪人である父親の死は乗り越えられると思い直した。

「私のことを迎えに来たと言ったのも嘘だったんですか?」
「ああ、あの時の」

男は最適な言葉を選ぶ。娘の問いは、自身が父親であることを告げ、『なぜ今まで会いに来てくれなかったのか』と尋ねられた時のことだ。

本当に娘との時間がこれで最期になるのであれば、己の本心を告げても許されるのではないだろうかと、そう思ったのは男のただの気まぐれだったのか。ため息混じりで娘の顔を見た男は口を開いた。

「半分嘘で半分ホント、かな」
……?」
「ジェニットに近付いたのは、クロードに接触するため。でも、クロードから守るには俺の傍に置いたほうがいいと思ったのは本当、かな。なんか危なっかしかったし」

ジェニットの瞳が大きく揺れたのを見て、男は言葉を間違えたと思った。

「なーんてね。またすぐに騙される。公爵の教育も過保護すぎるのか、人を疑うことをもっと教えるべきだよね」
「そうやってまた嘘を吐くんですね。でも私、お父さんの嘘と本当が少し分かってきた気がするんです。」
「えー。表情管理は幼少期から叩き込まれてきたはずなんだけどな」
「私には分かる気がするんです」

だって家族だから、と続ける娘に男は苦笑した。

「私はたくさんの嘘を吐いて生きてきて、紳士様もそうなのだと勝手に親近感を抱いていました」

実の父と妹に正体を告げたいもどかしさを抱えている中で出会ったのは、同じく嘘を重ねてるからと本当の自分を受け入れてくれた男だ。隠さずに何でも話せる存在というのは彼女にとっては貴重で、本当の両親はこんな人だったらいいと思ったこともある。それを父親であるアナスタシウスが知る由もないが。

「でも私たち、もう嘘を吐いて生きるのは止めて幸せになってもいいと思いませんか」
「え……?」
「一緒に幸せになりましょう」
「ジェニット、俺はもう」

娘がいくら願ったところで、死を待ち受ける男にその願いを叶えてやれる術はない。

「だから、もう私の前でだけは嘘を吐かないでください。お父さんが今思ってる本当のことを教えてください」

ジェニットは檻の中に手を伸ばし、男のよれた服の袖を掴む。凛々しい顔とは裏腹に、その手は震えていて、男は遂に根気負けした。

「じゃあ最後に一つだけ、本当のことを言うよ」

震える手を、男は一回り大きい自身の手で握る。

「幸せになれ、ジェニット。誰よりも幸せになるんだ」

娘の青い宝石の瞳は揺れて、一筋の涙が流れた。

……幸せになれと言うなら、お父さんが私を受け入れてください」
「できないよ」
「お父さんと一緒に生きることが、私にとっての幸せです」

一粒、また一粒と涙が溢れ、娘の握る手の力は更に込められていく。娘の姿を苦しそうに見た男は、最後には困ったように笑いその要望を受け入れた。

……分かったよ」

また一つ嘘を吐く。明日には死刑判決を受け、娘と自分を待ち受けるのは死別のみと知っていて、その場限りの幸福のための嘘を。

娘が涙を瞳いっぱいに溜めながらも幸せそうに微笑むと、騎士が時間の終わりを告げに来た。

「それではお父さん、また明日」
「うん、またね」

もう二度と会うことはない娘に感謝と、幸せを。そんな願いを込めて、最期にもう一度強く手を握る。男は娘が見えなくなっても、地上へと続く道を檻の中から見つめ続けた。

***

翌日、朝から男の裁判が予定通り行われ、誰もが想定した通り、男には死刑宣告が下された。

男は己の死刑確定により、昨夜交わした約束を守ることができなくなった事実を知る娘のことが気になった。裁判が延長されてしまったことで、余計な心残りが出来てしまったな、と玉座で己を見下ろす弟を男は恨んだ。

昨夜、娘が去った後に珍しく夢を見た。娘と二人、静かな街で暮らす夢だった。皇族という身分を捨て、自由きままに街を歩き、娘は出店の店主たちに勧誘の声を掛けられ続ける。娘の周囲は皆幸せそうで、その傍に当たり前のように在る自分がいた。

叶うことのない誓いを立てた罰なのかもしれなかった。だってこんなにも、この未来を過ごすことのできない事実が苦しいのだから。

後方の聴衆席にいるであろう娘の顔は見ないまま、法廷を後にする。

「幸せになれ」

その言葉にだけは嘘はない。男の刑の執行は、もうすぐそこだ。

死刑判決を受けたその晩、目を閉じて横になっていると、ガチャンという鍵の外された音で男は目を覚ました。覚醒しきれていない頭の中で、まず身体を起こすと、一瞬にして薄汚れていた身体が綺麗になる感覚に襲われた後、清潔な服を全身に纏っていた。薄暗い闇の中、頭の中に声が響き、早く檻から出るよう指示を受ける。

脳内に響く声に少し前と同様の感覚を思い出し、また操り人形になるのかと絶望するも、一向に思考や身体の自由を奪われることはなかった。

「お前は誰だ」
「今、見張りは全員眠っているから、急いでそこの階段から地上へ出ろ」
「は?」
「大事な娘が待ってるんだろ?」

娘という言葉に急ぎ階段を駆け上がると、闇夜に広がる星空がまず視界へと入る。辺りを見回すと、フードを深く被った何者かの小さな手に袖を掴まれて、皇宮の外へ続く道へと連れていかれた。

「ジェニット、これは何だ」
「約束したじゃないですか。一緒に生きようって」
「俺は死刑判決を受けたんだ。今は逃げられても、肩身の狭い思いは消えずにいずれ限界がくるんだよ」
「陛下の許可は得てます。だからこれから私たちは嘘を吐いて生きていかなくてもいいんです」
「クロードの……?」
「はい。姫様が説得してくださいました。私たちはこれからオベリアを出ます」
「オベリアを出るって……

アルフィアス邸で大切に育てられた娘がその外で生活して、そして長い間離れて過ごした罪人の父と生活して幸せになれるのだろうかという疑念は男から拭い去ることはできない。

「お父さん、私たちこれから幸せになりましょうね」
……ああ」

それでも、昨夜夢見てしまった娘との生活が目の前にあると知って、手を伸ばさないという選択肢を選ぶことも中々に難しい。

結果的に嘘を吐かないこととなった男は、娘の幸せのために残された人生を捧げようと、最後となるであろう皇宮の星空の下でひっそりと誓いを立てた。

「お父さん、早くあの馬車へ」
「そんなに走ったら危ないだろ」

こうして十五年越しに巡り合った親子の物語は、ここから始まる。

終わり

 

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