真っ白な肌、腰まで伸びたシルバーブロンドの髪を持つどこか儚げな女性は、イゼキエルの知る女性とは少し違っていた。出会った頃の天使のようにコロコロ変わる表情も無く、現在のような凛々しい表情があるわけでも無く、ただ今にも消えてしまいそうな無表情な顔をしている。
しかし、その姿を見た瞬間、苦しいくらいに心が締め付けられた。そして、何も映さない宝石の瞳に自分が入ることはできないのだろうかとイゼキエルは考えてしまう。だが、その想いが届かないことをすぐに悟る。自分は彼女に寄り添っていい立場ではないことを思い出したからだ。彼には幼少期から決められた婚約者がいて、その結婚がアルフィアス家の繁栄へと繋がっていた。
「アタナシア様」
想いを口に出すことはできないから、せめて名前を呼びたい。そうイゼキエルは考えて、その名に愛しい想いを共に乗せて呼んでみる。彼女は顔を上げることなく、俯いたままだった。
「アタナシア様」
胸に閉じ込めた想いを少しずつ解放するように、何度も名前を呼んだ。しばらくして困惑したように笑った彼女は、やっと顔を上げ、イゼキエルを視界へ入れる。
「もう、そんな何度も呼ばなくても聞こえていますよ。何ですか、公子」
「……何を言おうとしていたか、忘れてしまいました」
「抜けているところもあるんですね」
彼女から返事を貰えただけで、想いを受け取って貰えたのだと脳が錯覚を起こし、イゼキエルは満足した。彼女の白い手を取り、その甲へと口付ける。
「では、また」
「ええ」
次回の約束を含んだこの別れの挨拶は、本当の別れとなった。彼女の亡骸に対面して初めて、なぜあの時気持ちを伝えなかったんだろうという後悔が襲う。彼女の処刑から数日後、一国の皇女だったとは思えないほどに質素な墓石の前で、彼女に似合うバラの花束を涙と共に供える。
「……っ、アタナシア……様……」
誰も周りにいない墓石で、今まで心の内に留めていた気持ちが涙と一緒に溢れてくる。
「お慕い、しておりました……」
一緒に過ごした時はたった僅かであるはずなのに、彼女は四六時中頭の中を埋め尽くすほどに愛しい存在であった。もう二度と会えない彼女の顔、声を生涯忘れないようにしようと墓石の前でイゼキエルは誓いを立てた。
時を越えた愛
もう何度目になるか分からない夢にイゼキエルはため息を吐いた。アタナシアを想い、苦しむ自分の姿は、今後何かが起こるという警告なのだろうかと考える。しかし、夢の中の彼女は彼の知る人とは外見も性格も異なるし、何より今より少し幼い。そんな彼女は存命であるし、万が一にも処刑なんてことがあったら、彼女を溺愛する父が許さないだろう。
今日は宮殿で開かれるパーティーに出席する必要があった。父から当主の座を受け継いだイゼキエルは、アルフィアス公爵として公務を行い既に十年近くが経とうとしていた。
夢に出てきたアタナシア姫も、皇帝であった父から爵位を継ぎ、オベリア帝国史上初となる女帝として君臨している。父・クロードが妻を迎えることを拒んだことで、彼の血を引く後継者はアタナシアただ一人となった。そのため皇帝となる婿探しでオベリア帝国内外は大変混乱した時期があったが、クロードが彼女の婿を受け入れることを拒否したため、アタナシアが女帝となったのであった。クロードが権力を持つ内は婿の座を狙うことは難しいだろうと多くの貴族たちが肩を落としたのは記憶に新しい。
そうはいうものの、婿入り話が完全に消えたわけではない。先日、オベリア帝国の近辺に属する小国の連合たちがオベリアに敵意を向けていることが元老会の議題に上がった時の話だ。武力よりも友好的な解決を模索したいというアタナシアの意向があり意見を募った時、「陛下が婚姻関係を結ぶことが一番かと」と反皇帝派の家が発言したことがあった。
アタナシアはその意見に苦笑いして、「そういう類の話は一度持ち帰らせてほしい」と言うと、翌日その貴族の領地は皇帝領として一部没収された。この時は、まだ娘の婚姻に関して絶大な権力を握っているクロードの独断によって決行されたに違いなかった。貴族が自分たちに有利な婚姻を企ててはクロードが容赦なく潰す、そんなことを頻繁に繰り返している。
そんなこともあり、幼い頃に抱いたアタナシアへ対する想いは、イゼキエルの中でいつしか傍に居られればいいという想いへと変化を遂げ、皇帝派の公爵として彼女と長い時間を共に過ごすようになっていった。
だが今日のようにたまに見る彼女を失う夢によって感情が揺さぶられることがある。なぜ自分がこのような夢を見るのかイゼキエルはわからないまま、起き上がり朝食を取ることにした。
「帝国の太陽にご挨拶申し上げます」
夜、パーティーが開始してから少し時間が経過した頃、会場の人間の視線を集めた存在にイゼキエルもつられて視線を向ける。そこには玉座へ座るアタナシアに向けて花束を差し出した見知らぬ男がいた。
「誰だ?」
「隣国の皇子ですよ。陛下の婿入り候補の」
会話をしていた貴族が耳打ちしてきて、胸がざわめく。今日に限って彼女の父・クロードは不在、同行している専属護衛騎士のフィリックスも不在だった。皇子が許可無くアタナシアへ近付き、傍にいた騎士らが静止しようとしたが、「皇族に触れて良いと思っているのか」と男が罵倒すると、騎士らは何もできずに立ち尽くしてしまう。イゼキエルは小さく舌打ちして玉座へと足を向けた。
「遠いところからわざわざお越しくださいました」
「はい。結婚相手だというあなたのお顔を早く拝見したく」
「結婚相手……? そんな話はまだ何も……」
「まあいいじゃないですか。私、顔も身体も悪くないでしょう?」
「え……まあ顔は……」
「陛下」
皇子という権力を盾に距離を詰める男。その対処方法に迷っているアタナシアへ、イゼキエルが声を掛ける。彼女はイゼキエルへ視線を向けると男との会話を中断して答えた。
「何でしょう、アルフィアス公爵」
「急ぎ陛下へご報告したいことがありまして」
「用件は?」
「ここでは言いかねます」
イゼキエルが含みを持った視線で男を見ると、話を中断され蔑ろにされたと思った皇子は肩を震わせた。
「俺が今話をしているんだ。由緒あるアルフィアス公爵家だとしても、空気を読んでくれないか?」
「一刻を争う事案ですので、空気など読んでいる場合ではありません」
「なんだと……」
「皇子、私は政務へ戻ります。オベリアの地をぜひ楽しんでいってください」
「待ってください!」
「行きましょう、アルフィアス公爵」
アタナシアの黒く美しいドレスの上に、イゼキエルが彼女のマントを騎士から受け取る。マントを肩へ掛けると、彼は彼女の一歩後ろを歩いてパーティー会場を後にした。その早さに皇子はその場に立ち尽くす。
「ああ、疲れた」
イゼキエルを執務室へと招き入れたアタナシアは凛々しい表情を崩して来客用のソファーへと腰かけ、立ったままの彼を手招きする。それに従い隣へと腰かけたイゼキエルは口を開いた。
「出過ぎた真似をしてしまいましたか」
「ううん、イゼキエルが声を掛けてくれて助かったよ」
「強引な男でしたね」
「パパが居ない時に限って何で来るかな」
「狙ったんでしょうね」
「あ、そうか」
「貴族のおじさんたちも最近しつこいし。『二十五歳にもなって婚約相手もいないのは』とか、そんなことパパに言ってよ」
「先帝には言えないでしょうから」
「やっと政務もこなせるようになってきて、結婚どころではないと言うのに」
「まあ跡継ぎが姫様しかいないですからね」
「後継者問題が厄介なのよね。うるさいからいっそ結婚してしまうのもアリかしら。さっきの人も、顔は悪くなかったし」
二人きりの時だけ砕けた口調と表情に戻るアタナシアに安堵して、穏やかな気持ちで話を聞いていたイゼキエルだったが、彼女に発言に心境は一転する。
いくら彼女の父親が結婚を許さないからと言って、この帝国の最高権力者は彼女の父親ではなく、隣にいる彼女だった。結婚を決心してしまえば、彼女は別の男と添い遂げることになる。そう考えた時、傍で支えられさえすれば良いと思っていた穏やかな気持ちが急変して、彼女を誰にもとられたくないという衝動に駆られてしまう。イゼキエルは自分の胸に黒い靄のようなものが渦巻くのを感じた。
「イゼキエル?」
二人きりの時だけ呼ばれる名が特別な気がして、彼女への愛しさが増す。しかし、そんな気など微塵もない彼女は時に残酷だ。
「すみません、まあ結婚は今すぐしなくてもいいとは思いますけどね」
「イゼキエルこそ結婚話とかあるでしょう?」
「ありませんよ。僕も領地の繁栄を考えるだけでまだ精一杯ですから」
「でもあなたのお父さんは早く孫が見たいってよく言ってるわよ」
「……そうですね」
「イゼキエルなら引く手あまたでしょう。私のお友達も紹介してほしいって言ってくるんだけど……」
「……それは光栄ですが」
「本来ならジェニットと結ばれるはずだったのにね」
「……え?」
父しか知らないはずの話を口にしたアタナシアに、イゼキエルは驚いて聞き返す。
「ごめん、今の無し。夢の話と混同しちゃった」
”夢”という言葉が彼女の口から出てきて、イゼキエルは自分が幾度も繰り返し見た夢のことを思い出した。ジェニットの婚約者であり、想いを告げられないまま死別する物語のことを。彼は夢の中の気持ちに引きずり込まれて、理性によってずっと抑えられていた想いが溢れ出てしまう。
彼女の肩を掴み、自分と向き合うようにしたイゼキエルは口を開く。
「僕があなたのことを好いているのは、姫様もご存知でしょう」
「え?」
「知らないふりをするんですか」
「そ、それは昔そうだったのかなあって思ったときはあったけど今は」
「今も姫様をお慕いする気持ちに変わりはありませんよ」
「ちょっとまって。私たちとても良いパートナーで……」
「姫様を想うが故です」
イゼキエルはソファーから降りて跪く。固まるアタナシアの手を取り、甲に軽く口付けると、彼女の頬が真っ赤に染まった。その表情を確認して、イゼキエルは白い手の甲を何度も撫でる。握り返すわけではないが拒否をするわけでもない。
赤い顔を見られたくないからか、イゼキエルから顔を逸らしたのを合図に、彼は再び彼女の隣りへと座り、熱のある彼女の顔を覗き込んだ。
「嫌なら抵抗してください」
「や……めて」
「もっと身体とか魔法を使って抵抗してくれないと、止められません」
「イゼキエル」
頬に手を添えて顔を近付けると、彼女が抵抗しないのを良いことに指先で唇に触れた。親指で赤く色付く柔らかい唇を押すと、彼女の熱い吐息が零れる。
焦点の定まらない宝石眼を至近距離で見つめると、彼女が観念したように瞼を閉じた。その様子をイゼキエルは受け入れられたと解釈して、指を離す代わりに自分の唇を彼女のそこに触れる。
角度を変えて唇を重ねると、彼の唇に付着した赤を指で消すように擦った後、彼の首に両腕を回して自分の方へと引き寄せた。イゼキエルはその力に従うように重心をソファーへと沈めると、アタナシアと身体を密着させた。
「私、少し酔ってるのかも」
「それでもいいです。今夜だけは、僕のことを考えてください」
答えるようにアタナシアから口付けられて、イゼキエルは夢中で彼女の唇を貪った。
しばらくして惚けた表情をしたアタナシアが指から光のようなものを出すと、執務室の鍵が掛けられた音が響き、部屋の灯りが奪われる。外の明かりだけが部屋に僅かに差し込み、お互いの顔が辛うじて見えるだけになった。
止まった口付けを再開するように促され、イゼキエルは彼女のドレスから覗く白い首筋にも唇を落としていく。くすぐったそうに身体を捩る彼女のことが愛しくて、胸が苦しくなった。
***
乱れてしまったアタナシアの髪を耳にかけ、美しい寝顔を見つめる。執務室に何故かあるベッドへとアタナシアに引き込まれ、一生分の運を使い果たしたような気持ちにイゼキエルは駆られていた。彼女が酔っていたとはいえ、一夜を共に過ごすことができるなんて夢のような話だ。
それにしてもお互いが共有するようなあの”夢”とは一体何なんだろうとイゼキエルは夢見心地な思考で考える。髪を撫でる手に気付いたのか、彼女の瞼が薄っすら開いた。
「すみません、起こしてしまいましたね」
「……いいの」
照れているのか背を向けたアタナシアを後ろから抱き寄せるようにイゼキエルが包み込む。まだ夜は明けていない、熱が完全に冷めるのはもう少し先だろうと思い、彼は考えていたことを口にする。
「姫様が突然天から舞い降りたあの日、実は初めて会った気がしませんでした」
「え?」
「もっとずっと前から、姫様のことを知っていた気がするんです」
「……どうしてだろうね」
「僕、よく姫様の夢を見るんです」
「どんな夢?」
「皇宮で姫様と出会うんですけど、今のように傍にはいれずに二度と会えなくなる夢です」
「……」
「僕は一人、その悲しみに耐えるんですけど」
「……」
「僕自身の行動によってはそういう未来もあったのかなと、別世界の僕を見ているような不思議な気持ちなんです」
「そう」
「姫様のお傍にいられるこの世界が幸せです。永遠にこの想いは変わりません」
「……」
答えを聞く前に、アタナシアからは寝息が聞こえてきてイゼキエルは目尻を下げた。今夜だけの関係であっても良い、傍に居られればいい。そしてこの夜の思い出だけあれば、イゼキエルはこの先も生きていける気がした。腕の中の愛しい存在をきつく抱きしめて、耳元で囁く。
「アタナシア様、お慕いしております。永遠に」
この夜が永遠に続くことを願い、眠らないようにと自分自身に言い聞かせながらイゼキエルも瞼を閉じた。日差しが差し込む頃、急激な眠気に襲われて、少しだけと意識を手放した。
翌朝、イゼキエルは騒々しい声で重い目を開けることになる。
「やっぱり俺がパーティーに出るべきだった」
「だから大丈夫だって。皇子はかわして会場から出たから」
「あの男は金輪際、帝国を出禁にするよう命じる」
「ちょっ、そこまでしなくてもいいんじゃない」
「なぜそんな得体の知れない男の肩を持つ?」
「パパが私の結婚に厳しすぎるから!」
「……お前がずっと俺の傍にいると言ったんじゃないか」
「そんなこと言ってないよ」
「言っただろう!」
「いつの話してるの……」
アタナシアと娘を溺愛している父親のクロードが布一枚を隔てた向こう側で言い争いをしていた。イゼキエルは身の危険を感じて、何も身に付けていない身体に困惑し、シーツの中から服を探る。
「ん? なぜこんなところに男物のジャケットが?」
「あっ、それは冷えるだろうからと昨日貸してもらってて」
「誰に?」
「誰でもいいじゃない」
「アルフィアスの紋章……あの青二才め。相変わらずお前のことを」
「そんなことないから! イゼキエルは気遣いのできる人なの!」
「下心があるに決まっているだろう」
音を立てないようにして衣服を身に付けても、親子の言い合いは一向に終わらない。アタナシアさえ決心すれば結婚できるものだと思い込んでいたが、その考えは甘いということが分かったイゼキエルであった。
元老会の出席に揃って遅刻した女帝と公爵。昨夜のパーティーで同タイミングで席を外した二人を思い出した貴族たちによって、婿候補の上位にアルフィアス公爵が躍り出たことがオベリア中に蔓延することになる。
クロードによる監視の目が厳しくなるのはまた別のお話で。
END
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