こんなはずではなかったんだが、と数日前ただの男となったアナスタシウスは思った。皇族である証の瞳と親譲りのゴールドに輝く髪色を捨て、グレーの瞳と黒い髪となり第二の人生をスタートしたところだった。その外見による違和感は、男自身にも、周囲にも無いと言っていいほど、よく馴染んでいる。
そんな男が嘆くのは、オベリア帝国から少し離れた港町で、何が面白いのか、地平線を眺めながら笑顔を絶やさない少女のことだった。少女は男の血を引く娘であるが、生まれる前に娘の母とは別れたため、デビュタントを迎える年齢となって初めて対面を果たした。家族は一緒にいるもので、離れていた年月は関係ないのだと主張し、皇族や公爵家で享受できたはずの華美な生活を放棄して、血の繋がった父と共にこの地へ降り立った。
悪霊に洗脳されていたとはいえ、黒魔法に手を染めた父になぜ執着するのか、男には理解ができないし、今尚娘はこの場所へいるべきではないと思っている。
「風が気持ちいいですね」
「……そうだな」
「おじさんが来るの、楽しみです」
アルフィアス邸へ滞在していた頃、存在を公にできないことから外へ出ることが無かったという娘は、初めての潮風を気持ちよさそうに受けて目を閉じた。
この穏やかな時間がいつか終わりを告げることを男は分かっていた。ジェニットの育ての親であるロジャーは、身を挺して危険から守ろうとするほど娘のことを大切に思っている。彼は大事に育てた娘が帝国を出ることを強く反対したが、譲らない娘に折れて自分の目の届く範囲の居住地を提供することにした。きっと、いつか娘はアルフィアス家へと連れ戻されるのであろう。
しかし、アナスタシウスたちの住居に訪れたロジャーの反応は、男が思っていたものとは違っていた。
「公爵……あ、失礼。元公爵。こんな帝国外へ足を運ぶなんて、余程時間を持て余しているんだね」
「……」
「一体何をしにきたの? 俺の顔でも見に来た?」
「ジェニットが見知らぬ土地でどう過ごしているのか確認したくて」
「ふうん。連れ戻しに来たんだ」
ロジャーの意図を察したアナスタシウスは初めて彼から目を逸した。その様子を見たロジャーはジェニットに席を外すように伝えると、部屋には血の繋がった父と、育ての父だけが残る。ジェニットが扉を締めたのを確認して、ロジャーは再び口を開いた。
「この本を読んでみてください」
「?」
ロジャーが差し出したのは胡散臭い表紙をしたハウツー本。
「『娘から好かれる方法10選改訂版13』……」
「きっと急に父親になって困惑しているのではないかと思いまして」
「……余計なお世話なんだけど」
「ジェニットは私の娘です。聡明なあの子が私ではなく貴方を求めたんですから、その気持ちに応えて貰わないと困ります」
「えー」
アナスタシウスはパラパラと本を捲って内容を確認する。表情を柔らかくする、褒める、怒らないなどと娘から好かれるための方法が事細かに書かれている本だった。
「俺に必要あるかな? 優しくしてるし、君みたいに口うるさくしないし、基本自由に伸び伸びとさせるのが教育方針なんだ」
「貴方本当に皇族だったんですか」
「さあね」
「とにかく、私もジェニットと親子になるために参考にした本なんです。読んでみてください」
「はいはい」
ロジャーは何度か念押しすると満足して、ジェニットと話をすると言って部屋を出ていった。その場に残されたアナスタシウスは、本を机に放り投げるとソファーに身体を沈めた。
「おじさん、元気そうで良かった」
「お前もいつも通りだな」
「はい。みんなと離れたのは寂しいけど、この街でも楽しく暮らしていけそうです」
「欲しいものなどあればいつでも言いなさい」
部屋の外から漏れる親子の会話を、アナスタシウスは少し不愉快そうに聞いている。男は扉の向こうで娘が幸せそうに笑顔を向けている姿が想像できて、少し心に靄がかかったのには気づかないフリをした。
騒々しい客人が帰った後、何もやる気が起こらずにソファーへ身体を投げていたアナスタシウスにジェニットは声を掛ける。
「疲れましたよね、ゆっくり休んでください」
「……」
「今日はおじさんが果物をたくさん持ってきてくれたから食べましょうか」
「……ジェニット」
「はい?」
「アルフィアス邸へ戻った方がいいんじゃないか?」
「……え?」
母と同じ色のエメラルドの瞳が揺れたのを、アナスタシウスは見ないように逸らして話を続けた。
「あそこなら不自由なく暮らせることがここへ来て分かっただろう」
「おとう……さん、何度も話したじゃないですか。一緒にいたいって」
「本当はあの時、家族は一緒にいるべきと言ってしまった手前、俺に気を遣っているんだろう?」
“あの時”とは、まだジェニットがアナスタシウスを父親だと知らない時に、離れた親子を思って発言した娘のことを指していた。
「俺はここで一人でも生きていけるよ」
「な…なんでそういうことを言うんですか」
どんな反応が来るのかと待っていると、震えた声が聞こえてきてアナスタシウスは顔を上げる。すると、涙を目に溜めて顔を赤くした娘が目に入り、男は内心とても慌ててしまう。泣かせたいわけではなかった。安心して不自由ない生活をさせてあげたかった。その伝え方がよく分からないだけだ。
「私は、やっと本当の家族と会えて、これから少しずつ家族になれるのを楽しみにしてるのに……」
「あー」
頭を撫でてみても、ジェニットの涙は止まらない。娘の涙は怒りによるものなのか、悲しみによるものなのかも分からなかった。昔、弟が涙を流している時はその理由を察することなど容易いものであったはずなのに。
たまたま目に入ったロジャーが置いた本に救いを求めて目次を開くと、「娘を怒らせ泣いてしまった時、どうしたらいい?」というQAが運良く目に入った。急いでページへ飛んだアナスタシウスは、内容を読み込む。
『素直に“ごめん”と謝りましょう』
記載されていたのはとても短い回答だった。男はこの通りにするか、迷ってしまう。悪いことをしたとは思っていない、その否を認めていいのだろうか、と。元皇帝である男のプライドはとても高かった。
『娘の前で意地を張るのは止めましょう。素直さが関係改善への一歩です』
男の行動を見越したように小さく書かれた追記に思わず唇を噛みしめる。これで失敗したらアルフィアス邸へ本を送り返す口実ができるな、と腹を括り試す決心をした。ちなみに男が決心をした頃にはジェニットは自室へと戻ってしまっている。
扉の前へと立ち、深呼吸を一回してから扉をノックする。
「……ジェニット」
声を掛けると、扉がゆっくりと開き、姫の人形を持ったジェニットが男を見上げた。娘の目は赤く充血し、今まで泣いていたことを物語っている。
「なんですか」
「あ、その……」
「……」
「す……」
「……?」
「す、すまなかった」
意を決した謝罪の言葉は尻すぼみしていったが、静かな二人きりの家の中では娘の耳にもしっかりと届いたようだ。男の言葉を受けた娘は目を見開き、男の顔を見る。
「もう、アルフィアス邸へ帰れなんて言わないですか」
「言……わない」
「そうですか」
誓いを立てると、ジェニットの瞳からは再び涙が零れ落ちた。
「え?」
あの嘘つき本が、と思いながらも娘の涙に男は再び慌ててしまう。あの本のどこかにヒントが載っているかもしれない、とリビングルームへと戻ろうとして、ジャケットの裾を引かれた。
「どこにもいかないでください」
「でも……」
「泣いてるのは、嬉しくて泣いてるんです」
涙を流しながら笑う娘を見て、アナスタシウスは初めて胸が締め付けられるような気持ちになった。
***
「ちゃんと本はお読みになられてますか?」
爵位を剥奪されて余程暇なのか、娘の顔を見に来ているのか、ロジャーは頻繁にアナスタシウスの住居を訪れては本の進捗を確認した。
「うん、まあ分からないときにQAは読んだりしてるよ」
「一章から読んでください。陛下もこの本で姫様との関係を修復なさったんですから。私が笑顔の手本を見せて」
ロジャーの渾身の笑顔を見せられた男は顔を引きつらせた。しかし、この本を読んでみる価値はあるかもしれないなと思い直す。
「お父さん、おじさん。ちょっと私、海へ行ってきます」
「一人で行くのか? 危ないから私も行こう」
相変わらず過保護なロジャーに呆れながらも、男もひっそりと口を開いた。
「俺も外に用事あるし、ついでに海でも行こうかな」
素直ではない男の言葉でも、娘は嬉しそうに笑った。
そんな未熟な父と娘の生活はまだまだ始まったばかりだ。
end.
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