「私の婚約者のイゼキエル・アルフィアスです。イゼキエル、ご挨拶を」
婚約者であるジェニットから紹介されたのは、この世のものとは思えない美しさを持つ第一皇女だった。ウェーブのかかったシルバーブロンドの髪に、普段から日の光を浴びていないかのように透き通る白い肌を持つ。そして皇族である証の蒼い宝石眼は見慣れているはずなのに目を釘付けにする輝きを帯びていた。
幸が薄いとの噂を耳にした先入観からか、表情を始めとして悲壮感が漂ってはいるが、それがまた儚く、美しい―――。
挨拶をすることも忘れて言葉を失っている僕に、ジェニットが不思議そうにこちらを見上げて挨拶を促す。呼吸を落ち着かせて、第一皇女に頭を下げて口を開いた。
「お初にお目に掛かります。イゼキエル・アルフィアスです。お見知りおきを」
僕の挨拶を受けた皇女は目を伏せて、耳を澄ませないと傍で作業する庭師の声にかき消されてしまうほどに消え入る声で挨拶を返した。
「アタナシア・デイ・エルジェア・オベリアです。アルフィアス公子、話はジェニットからよく聞いておりました」
「私は幼い頃アルフィアス邸で一緒に育ったので、婚約者ではあるんですが兄妹のような関係でもあるんです」
「そう言いながらもジェニットが公子のことを好きなのは知っています」
優しく目尻を下げてジェニットへ視線を向けた後、「ゆっくりしていってくださいね」という言葉をその場に置いて、姫様は去っていった。
「綺麗な人でしょう」
姫様の後ろ姿から目を離せずにいると、隣に立つジェニットも同じ方向を見つめて「日に日に綺麗になっていくの」と笑っていた。
「綺麗で、優しくて、博識で、私の自慢の妹なの。あとは、お父様がそのことを理解くださるだけなのだけれど」
「……そうですか」
僕が命果てる瞬間まで忘れることのできない、アタナシア様との出会いだった―――。
あなたが幸せになるまで何度でも
父、ロジャー・アルフィアスの策略通り、従姪であるジェニットを皇宮入りさせることに成功したアルフィアス家は、オベリア帝国内で確固たる地位を確立させ、頻繁に皇宮を訪れることになる。僕は父から将来の後継に、と補佐官として元老会や皇帝陛下への謁見に参加することになり、父と一緒に皇宮へ足を運ぶ機会が増えて行った。
ジェニットの顔を見に行った後、姫様に挨拶をした庭園へ足を運ぶことが習慣になっている。目を奪われたという表現に近しい感情を知るとは思いもしなかった僕は、もう一度だけ一目拝みたいという欲を捨てることができずにいた。
足を運び何度目か回数を重ねた頃の、バラが咲き誇る庭園内で、念願の姿が視界に入り思わず立ち尽くす。目を閉じてバラの香りを嗅ぐその姿は、まるで背に翼の生えた天使のように美しい。
「オベリアの繁栄があらんことを」
突然掛けた声に、姫様はビクッと肩を震わせて僕の方へと身体を向けた。警戒心は解かれないまま、ただ挨拶を受け入れられる。
「美しいバラですね」
「ええ、とても」
「姫様によくお似合いです」
会いたいと思ってはいたものの、いざ会えたら何を話したいかまで計画に無かった僕は、姫様がしばらく見つめていた花の話に焦点を当てることにした。しかし、彼女は悲しそうに微笑むと、ゆっくりと口を開く。
「……私のバラではないんです」
「え……?」
「ここはジェニットの庭園です。本当は私が足を踏み入れて良い場所ではないんです」
声を掛けられたときの驚き具合に合点がいく。何度この庭へ通っても姫様に会えない理由が分かった。ジェニットの暮らすエメラルド宮の庭園、それでは姫様は一体どこで生活をしているのだろう。
「では普段はどこで過ごされているのですか」
「基本的には宮の中です」
「姫様のお庭にも、今度是非ご招待いただければ光栄です」
「……お越しいただいても公子を持てなすことはできないので」
遠回しの拒絶に少し強引すぎたかと反省した。それでも、再び会えるかわからない姫様と次回も話す口実が何か欲しいという欲求に駆られてしまう。
「それではまたこうしてお話することをお許しいただけますか」
「……またもし偶然にも出会うことがあれば」
社交辞令とも受け取れる回答ではあったが、これで再び遭遇しても避けられることはないだろう。今は次の約束に繋げられただけで十分だった。
初めて会ったときは美しさに目を奪われた。次に会ったときは、一国の姫にも関わらず笑うことすら知らないジェニットと対極な境遇に同情した。
***
それから一年の中で数回だけ、偶然にも姫様と遭遇する機会があった。何とか会話を紡ごうとする僕を追い払うことはしなかったが、積極的に会話をしようとしているようにも見えなかった。会話が途切れると、静かに別れを告げて去る。古びたルビー宮へと続く道を歩く彼女の後ろ姿はいつも儚げで、見えなくなるまでその場に立ち尽くしてその姿を見守った。
「第一皇女をヒュエールに嫁がせてはいかがですか」
元老会で突然発言したのは皇帝派でありアルフィアスと親密な貴族だった。最近関係が悪化しているヒュエール国への抑制策についてが議題だったはずだ。突然聞こえてきた発言に耳を疑った。
「第一皇女を人質に……?」
「他国と強い結びつきを得るには婚姻関係を結ぶのが最善だというのは常識でしょう」
「第一皇女ももうすぐ十八になるお年でしょう。まだ婚約者も決まっておられないではないですか」
ジェニットを第一皇女に据えるため、危険因子の可能性があるアタナシア姫様を潰しておきたいアルフィアス派の策略であるのは明らかだった。
ふと玉座へ視線を向ける。沈黙を続ける皇帝の顔はいつも以上に険しく、僕は一抹の期待を胸に抱く。もしかしたら、噂はあくまで噂なのではないかと。娘を大切に思わない父親など、この世にいるわけが―――。
「第一皇女?貴様らが勝手にそう呼んでいるアイツか」
「アタナシア様のことでございます」
「これ以上俺の視界に入らなければいい。ヒュエールでも辺境の地でも、どこへでも連れていけ」
寂しく微笑みながら、他国へ嫁ぐことを承諾する姫様が脳裏に浮かび上がる。娘だと頑なに認めない父親、幼い少女よりも自己の利益を優先する貴族たち、そしてそれをほくそ笑む僕の父親。この場に座るすべての人間に怒りで頭に血が昇る。何より―――。
「イゼキエル、浮かない顔をしてどうした?」
「……何でもありません」
この場で反論さえもできない僕自身の無力さが、一番腹立たしかった。
「アタナシア姫様へお目通り願いたいのですが」
会議後にルビー宮まで足を運ぶと、椅子に座り業務放棄しているであろうメイドたちが慌てて立ち上がりバタバタと駆けていく。一国の姫に対する態度とは思えないが、この国は皇帝が法律の世界だ。皇帝が姫としての待遇を与えなければ、当然姫として扱われないのだろう。
だからせめて、僕だけはあの方をこの国の姫として。
「公子……何の御用でしょうか」
「……いえ、お顔を拝見しようかと」
元老会が終了してすぐに向かったというのに、いつも以上に暗い表情に胸が締め付けられた。まさか、もう誰かから聞いてしまわれたのか。涙の痕が残る頬に思わず手を伸ばすも、振り払われることはなかった。受け入れられた嬉しさと、己の無礼さが気にならないほどに傷ついているのかという気持ちとが葛藤する。
「何かございましたか」
余程誰かに話を聞いてほしかったのか、涙をいっぱいに溜め込んだ眼で僕を見上げた彼女は、重い口をゆっくりと開いて言葉を紡いでいく。
「友人が、たった一人の友人が去ってしまいました」
「……」
「居なくなると知ってはじめて、彼は心の支えだったのだと実感するなんて」
堪えていた涙をボロボロと流す姫様を見ていられなくて、引き寄せる。彼女の唯一の友人とは誰なのか、彼には笑顔も見せたのか、なぜ居なくなってしまったのか。聞きたいことは山程頭に浮かんだが、初めて彼女が僕に見せた感情を大切にしたいと思った。
幼い頃、よく涙を流すジェニットの背中をこうして擦った。安心したように眠りにつくジェニットを妹のように可愛がり、いずれ彼女が生涯の伴侶となるのだと父に告げられた時は、よく知った優しい子が相手で良かったと心からそう思った。これは、姫様を救いたいと思うこの感情は、ジェニットに対する裏切りになるのだろうか。
「僕では役不足でしょうか」
「え……?」
「その心の支えに、僕がなることは難しいのでしょうか」
少しずつでいい。もうすぐこの国の姫ではなくなってしまうこの方に、最後にこの国での生活も悪いことばかりではなかったと思って貰いたいと願うのはいけないことなのだろうか。
「僕には何でも話してほしい」
「……!」
彼女には理解できる言語でそう告げると、目を見開いた彼女は涙を止めてスゥっと息を吸い込むと、すぐに流暢な言語を返してきた。
「私がその国の言葉をわかるとご存知だったのですか」
「姫様は博識だとお聞きしまして」
僕の言葉に姫様は声を出して笑った。出会ってから初めて僕に見せる心からの笑い。それは、まるで―――。
「私たちだけの秘密ですね」
アルランタ語は外交のため一部の貴族が習得を求められる言語だった。皇宮に滞在するメイドや騎士で理解できる人間はそう居ないだろう。幼少期の留学によって身に付けた言語が、まさか外交よりも価値のある形で役に立つとは思わず、初めて父に感謝した。
彼女の思い出作りのために、というのは己を正当化するための言い訳だったと後から振り返れば分かる。もうこの時の僕は既に、姫様が少しずつ見せる新たな一面を見つける度に、沼にはまったように抜け出せなくなっていた。
***
別れの時間は刻一刻と迫っていた。そして、それを僕だけが知っている。
「イゼキエル、この文献なんだけど」
「……」
「イゼキエル? 何かあった?」
姫様が十八を迎える直前、元老会では第一皇女の輿入れの大詰めを迎えているところだった。今日の話を聞く限り、十八になった瞬間にも彼女は隣国へと引き渡されるだろう。そんな今日も、変わらずルビー宮を訪ねて、日差しだけが満足に差し込む質素な庭で一緒に本を読み、感想や考えを言い合う。
「姫様、僕とここから出ていくなんてどうでしょう」
「どうしたの、突然」
「突然ではないのです。僕はずっと……」
最後に思い出をと誓ったあの時、胸に抱えた想いは、同時期にルビー宮の庭に植えた花の苗と共に、いやそれ以上に日々育まれていった。
いつかエメラルド宮のような庭園にしましょう、と提案して比較的すぐに花の咲く苗を植えた。もう蕾のあるものも多く含まれていたから、足を踏み入れる度に庭には少量の花が力強く咲き誇り、彼女は外へと頻繁に出るようになったのだとジェニットが嬉しそうに話していた。
「あなたはジェニットの婚約者でしょ? ジェニットを置いてどこへ行くというの?」
僕の提案に微笑みながら答える姫様は、本気さが伝わっていないのか、知らないフリをしようとしているのかその真意は分からなかった。
「私はお父様の決めた命に従うのみ」
「従う必要がどこにあるんですか」
「いつも何かをする度に思うの。これをやり遂げればお父様は私を認めてくれるかしら、って」
「姫様……」
「最後の希望をいつまでも捨てきれない娘なの」
(こんなにも健気な娘のことなど眼中にないのが皇帝だと言うのに……)
出会った頃から変わらずに唯一の親の愛を求め続ける姫様の言葉に唇をグッと噛みしめる。
「……父上に愛されることだけが人生ではありません」
「でも私は、幼い頃からそれが欲しくて欲しくてしょうがなかった」
「僕があなたを……」
何も親から与えられるだけが愛情ではない。血の繋がりなどなくとも愛してくれる人間はいるし、血の繋がりを自ら生み出すことだってできる。しかし、それ以上先の言葉を告げることは許さないと言わんばかりに宝石眼を強く輝かせた彼女から、強い意志は変わることはないのだと言われた気がした。
「ジェニットを、姉を、よろしくお願いします。イゼキエル、もし……」
「え……?」
姫様から告げられた言葉に返事をすることができないまま、勢いよく駆け寄ってきたエメラルド宮のメイドに名を呼ばれる。
「アルフィアス公子! ジェニット様が! ジェニット様が! 誤って毒を含まれて…!」
そこから先のことはよく覚えていない。姫様と共にジェニットに駆け寄ると、この世のものとは思えない皇帝が暴走をはじめて、意識の戻らないジェニットを置いてトントン拍子に日々は過ぎ去っていった。
姫様とは予定よりも早く別れを迎えることになった。他国への輿入れであったらどれだけ良かっただろう。死という永遠の別れを―――。
辺りが火に包まれている。赤にも青にも大きくなる炎は己の怒り、憎しみを現しているように思えて、身動きの取れない身体で存分に煙を吸い込みながら、不思議と満たされた気分だった。
「姫様」
姫様との逢瀬を重ねていたことが、ジェニットの毒殺を企てた一員として疑われた僕は皇帝によって地下牢に入れらた。しかし、僕の刑はなぜか執行されなかった。それはジェニットが庇ったのか、濡れ衣だったことが判明したからか、今となっては分からない。姫様の処刑から少し経った頃、いつの間にか皇帝は死に、オベリア帝国は崩壊寸前だった。
そんな混乱の情勢で牢獄から出ることも死ぬことも叶わず絶望している中、突然地下牢まで響き渡る爆発が起こった。大地が揺らぎ、地響きが鳴り止まずにいると、その後炎が地下まで回ってきたが、鎖に繋がれたままの身体でここから脱出する方法を考えようとも思わずに、静かに寝そべる。
なぜ一人で先に逝かせてしまったのか。それだけを考えては悔やむ日々だった。だから、早く。
『イゼキエル、もし……来世というものがあるのなら、またあなたと出逢いたいと心から思うの。傍に居てくれて、ありがとう』
最期の会話。美しい、儚い、守りたい、一緒に生きたい、傍に居たい。生まれて初めて知る感情を僕に与えてくれて、ありがとう。そう感謝の気持ちと、愛を伝えたかった。彼女が生きている間に。
「やっと……あなたのお傍に」
煙で呼吸が苦しくなってきて、意識を失いかけたその時。檻が大きく音を立てて、目を瞑るなと訴えかけてきた。
「イゼキエル!」
名を呼ばれて目を開けると、そこにいたのは全身を黒く汚した父の姿だった。
「父上……」
「なぜこんな事に……混乱に乗じて入ることができたが……イゼキエル……」
「ありがとう」
父が僕の名を叫び続ける声を聞きながら目を閉じると、光に包まれた気がした。
父上と母上から愛情いっぱいに育てられ、ジェニットと仲睦まじく過ごす日々が走馬灯のように思い起こされる。
そして、自分の元へ天使が天から舞い降りるワンシーン。それは僕の知らない、姫様の幼い姿だった。僕は天使を落として傷付けないように幼い身体で必死に抱きとめる。
次に見たのは記憶よりまだ幼い姫様が皇帝とダンスを踊る幸せそうな姿だった。それは姫様が想い続けた夢だ。ダンスホールにいる全員がその美しい親子に目を奪われる。僕もその一人だ。
『アタナシア姫様、こうして正式にご挨拶するのは初めてですね』
姫に相応しいドレスを身に纏う凛々しく美しい姿に、僕は堂々と挨拶をするんだ。
「あぁ、姫様によくお似合いな光景だな」
温かい体温と炎とに身体が包まれた。最期の瞬間まで彼女を想う。彼女がこの幸せを手に入れる世界があることを願わずにはいられない。そして、その時願わくば彼女の傍にいるのは自分でありたい。
僕の元に再び天使が舞い落ちるその時まで、この気持ちに別れを告げた。
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