「ジェニット!」
「お父様っ!」
頭痛が止まらない。鈍器でいつまでも殴られているような感覚だった。元々感じていた頭痛も娘のジェニットといれば不思議と和らぐ。それなのにある日を境にジェニットが居ても頭痛は収まらず、むしろ悪化するようになっていた。まるで選択を間違えた罰だと言われているかのように。
『私もお父様の娘です!なぜ私をジェニットのように愛してくれないのですか?私のほうが前から宮殿にいたのに』
『お父様…私はジェニットを毒殺なんてするはずがありません!何かの間違いです!』
『私はお父様の娘であったことを後悔したことは、今も、そしてこれからも一度もありません』
頭痛の原因。忌々しい少女。顔を見るだけで頭痛を引き起こす存在。
瞳が自分の娘であることを物語っていると言う者もいたが、どこの女の子供かも分からない人間を娘と思えという方が無理というものだ。ジェニットを毒殺未遂したという、ちょうどいい理由にかこつけて、つい数日前に十八歳の少女を処刑した。頭痛の原因を排除したはずなのに、最期に見た跪き哀しげに自分を見上げる表情、そして瞳が頭から離れず、処刑しても尚、自分を苦しめようとする少女の存在が腹立たしかった。
大きな樹の下で
先程まで己を呼び続けていたジェニットの声が頭から消えた。どこかへ行ってしまったか、それとも頭が何の音も受け入れなくなったのか。それでも外の豪雨の音が頭痛と共に頭には鳴り響いていた。
『パパっ!』
『私、パパの娘で幸せだよ』
『パパにお願いがあるの、パパにしか叶えられないことなんだ』
なんの記憶だこれは、と朦朧とする意識の中で考える。どこか見覚えのある、だが自分の記憶には存在しないはずの幼い子供に微笑みかけられている。
「パパ」
薄っすらと目を開けると、数日前に処刑したはずの少女が自分を見下ろしていた。まさかもう自分は地獄へ落ちたということなのか。その時思い浮かんだのは、一人残してしまう大切な娘と、そして残してきた仕事の数々。取り掛かれてもいない仕事を一つ一つ思い出していることに、自分はちゃんと皇帝としての自覚はあったのだな、と少し可笑しくなった。
「パパ!」
頭に響き渡る声を静止しようと、いつまでも夢の中に出続けるなと、もう地獄へ落ちたのだからいいだろうと、目の前の少女に言いたいことは山ほどあった。
「……アタナシア」
そして自然と口から溢れ落ちたその名は、一度も呼んだことがないはずなのに、かつて何度も呼んでいたかのような声が出たことに自分で驚く。
「パパ!しっかりして!目を開けて!」
「アタナシア」
「このままだとオベリアは滅んでしまうの!」
「アタナシア」
頭を抱きかかえられているのか、視界がぼやけていてわからない。顔に水滴が落ちるのを感じ、少女の声は震えているように聞こえた。泣いているのだろうか。少女の叫ぶ声が頭に響くはずなのに、どこか心地よい。
「お前を、数日前に、処刑した」
「そうだね。何もかも忘れちゃったパパが、娘の私を殺したんだよね」
「なぜ、ここに」
「パパの呪いを解きに来たんだよ」
「呪い…?」
「パパが自分にかけた呪いだよ」
まずは一つ目の呪いを解きに行こう。少女の声を夢見心地に聞いていると、少しずつ頭痛が和らいでいき、視界が白い光へと包まれた。何か大きな木のようなものが一瞬だけ見えた気がした。
「パパ」
「何だお前は」
「どうしたのパパ?アーティはパパのむすめでしょ?」
ここはどこなのか、自分は何歳なのか。頭が困惑する。恐らく先程の少女であろう子供を腕に抱きかかえて、宮殿の庭を歩いていた。不思議なのは、こんなに少女の傍にいるのに、初めて頭痛を感じないことだった。だからなのか、初めて自分のもう一人の娘だと言う少女の顔をじっくりと観察した。
「陛下ぁ、そろそろお傍へ行ってもいいですかぁ?」
「…その情けない声はフィリックスか?」
「姫様を独り占めしたいのはわかりますが、姫様は私の抱っこを求めております」
「は?」
抱っこ、だと。フィリックスは自分に意見をできる数少ない人間であった。それも歳を重ねるにつれて、少しずつ無くなってはいったが。十年ほど前は、まだ話もしていた記憶がある。ちょうどその辺りの時代に何らかの力によって飛んできてしまったということなのだろうか。
それにしても、フィリックスの口から出る台詞とは思えない。
「……アーティ、パパのだっこがいい!」
眉間に皺を寄せていると、少女の言葉にフィリックスがトボトボと後ろへ下がったのを確認し、少し満足した。落ちそうになっている少女を抱え直す。これまた慣れた手付きなことに少し驚いた。
「……そうか」
「うん!パパだいすき!」
目の前の少女は頬を染めて笑った。その笑顔に胸が温かくなるのを感じて、違和感を覚える。一体、俺は何をしているんだろう、と。こんな世界は有り得ない。幼い子を腕に抱えて子守をしている自分なんて、自分ではない。到底受け入れることはできなかった。
* * *
少女は自分の元へ飽きもせず訪ねてきた。頭痛を感じなければ不思議なことに不快に思うこともなくなっていき、懐いてくる娘を年数を重ねる毎に自然と受け入れていった。
「パパ」
デビュタントを迎える年齢となった娘との関係は良好だった。元々持っている記憶の中の彼女のデビュタントは一切記憶になかった。そういえば、ジェニットが娘として入宮したのもこの時だったっけ、と薄れゆく記憶をぼんやりと思い出していた。
皇帝に即位し気に入らない貴族をとことん断罪していった。その強引さにフィリックスを含め、周囲に人が寄り付かなくなっていく中で、自分の元へと通い続けた娘に自然と愛着が湧いていったのだ。何かは分からないぽっかりと空いた穴にちょうどはまったのがジェニットの存在だった。
「パパ、何考えてるの?」
「いや、何でもない。誕生日は何が欲しいんだ?」
「……パパが一緒に過ごしてくれるだけでいい」
「そうか」
この世界のアタナシアにも、ジェニットと同じような役割を求めているのだろうか。自分には欠落した何かがあって、その虚無感を娘が埋めているような関係性を感じていた。だが、その欠落した何かが分からない。
この世界には失ったはずのフィリックスも、アタナシアもいる。ジェニットがいない。果たして自分に足りない何かとは何なのだろうか。
この世界に来る前に頭痛の中で見たアタナシアの姿もそうだ。この世界でも見ていないあの記憶たちは、一体何を示していたんだろう。
「俺は何かを忘れているのか?」
「なにを?」
「お前が言ってた、欲しい物があると」
「そんなこと言ったかな…誰かと間違えてない?」
心配そうに顔色を確認する少女は少しずつ大人になっていた。子供の成長とは早いものだな、と年寄りみたいなことを思いながら、成長したアタナシアを見ると、処刑した少女を嫌でも思い出す。大きくなればなるほど、あの少女と比べてしまうのだ。今より背丈が高くて、可憐なドレスを身に纏って、美しく微笑む顔を。そんな顔は前の世界で見てもいないのに。
「肖像画」
「え…?」
「俺との肖像画が欲しいって、お前が」
まだ描いてもいないはずの肖像画の、椅子へ座る自分の後ろに立ち微笑むアタナシアの顔が頭の中に鮮明に浮かんだ。記憶が、おかしい。
「やっと私との記憶思い出した?」
先程までティータイムを楽しんでいた愛くるしい娘は、表情は変えないまま、意味を理解するには難しい言葉を口にした。
「アタナシア、一体どれが本当のお前なんだ…?」
「全部だよ」
「全部?」
「そう、全部。パパが嫌いだった私も、パパが大好きだった私も、そして今の私も全部」
「全部、パパの娘だよ」
『私もお父様の娘です』
処刑される前のアタナシアが脳裏へと浮かび、一つ一つの記憶が蘇っていく。そして、魔力の暴走に巻き込まれて倒れるアタナシアへ、フィリックスの静止も振り払って必死に飛び込んだ時の光景までが鮮明となる。
全ての記憶を手に入れた。
そう自覚した瞬間に、頭が割れるような頭痛が再発する。次第に涙がこぼれ落ちた。痛みからくる涙ではなかった、これはーーー。
「アタナシア、すまない」
崩れた己の身体に駆け寄り、背中を擦るアタナシア。その娘を思い切り抱きしめる。
「…パパも苦しかったよね」
「アタナシア」
なぜ、娘にあんなことができたのか。今のアタナシアには関係ないことなのかもしれない。それでも何度も何度も優しく首を撫でずにはいられなかった。
するとアタナシアからは不思議な魔力が放出され、頭の痛みがすっと和らいでいく。身体の毒が抜かれていく、そんな不思議な感覚だった。
「一つ、呪いが解けたね」
「……?」
「もう一つの呪いを解きに、パパは辛い過去と向き合わなくちゃいけないよ」
「何だそれは…」
「思い出して、ママのことを」
* * *
アタナシアそっくりの女。あぁ、自分はなぜ愛しい女のことを忘れていたんだろう。
「選べ!今もお前の身体を蝕んでいるその子ではなく俺を!」
意識は彼女と会った最期の記憶へと飛ばされた。たった今、自分を捨てて子供を産むと決断した彼女に、考え直せと懇願をしたところだった。この先の結末は覚えている。
「それはできません陛下」
「なぜだ」
「それは、この子が陛下の子供だからです」
言葉の意味を理解できず、ここまで頼み込んでも受け入れられることはないことに深く傷つき、部屋を後にしたのが彼女との最期の記憶だった。次に会うのは彼女の亡骸。
しかし、アタナシアと過ごすようになり、この時の行動が後悔としていつまでも残ることになった。娘を残してくれた感謝と、伝えきれなかった愛と。どれだけ説得しても彼女を失う運命が変わらないのであれば、その時間を大切に過ごせば良かったんだと。
「ダイアナ…」
「はい、陛下」
「ずっと、これから先もずっと、お前のことを想うんだ」
それからはフィリックスに執務を代行するよう命じ、僅かに残された時間を彼女と共に過ごした。かけがえのない時間だった。触れ合い、微笑み合い、一生分の愛を囁き合う。彼女と別れ、娘と出会うその瞬間までーーー。
「お前の産む娘は、きっと怖いもの知らずだ」
「それは頼もしいですね」
「お前に似て綺麗だから、変な男が寄り付く。今から心配だ」
「もう、陛下ったら。息子かもしれないのに」
「娘だ」
髪を引っ張り、頬を平気で叩く娘なんだ。デビュタントで男女問わず会場中の注目を集める、美しい娘なんだ。
「陛下」
「なんだ」
「もし私が居なくなっても、この先別の人を愛しても、この子だけは…」
ダイアナは目を伏せて控え気味に言葉を紡いでいった。愚かだった、心を傷付けまいと感情を失う魔法をかけて、その原因の芽を潰すために元凶であるダイアナを忘れる魔法までかけてーーー。
「そんな日は来ない」
「え?」
「この先ずっと、別の人間を愛することもないし、娘を傷つけるようなこともしない。俺がずっと、こいつを傍に置いて面倒を見る」
「ずっとって。お嫁に行かせてあげてください」
「嫁には行きたくないと言うはずだ」
これは事実だった。彼女の大きく膨らむお腹に手を当てた。もうすぐ会えるな、そしてもうすぐーーー。堪えていた涙が零れ落ちた。
「アタナシア」
「ん?」
「この子の名前はアタナシア。どんな困難がこの子に待ち受けようとも、陛下が守ってくださるからこの子が死ぬことはありません」
「……そうだな」
いつまでも、いつまでも彼女とお腹の中の子供を抱きしめた。毎日、毎時間、彼女の死が二人を分かつときその時までーーー。
「アタナシア」
目を閉じて永遠の眠りへとついた愛しい女の手をいつまでも握りしめながら、片手で赤子を胸に抱きしめる。
「アタナシア、俺がお前を守るから」
* * *
胸に抱きしめていた赤子は白い光の中へと消えていき、また突如として現れた巨大な木の前に大きくなったアタナシアがいた。
「パパ、呪いが解けたみたいだね」
「ああ」
頭痛だけではなく、鉛のように重たかった身体が軽くなっている。それは十数年前に自分自身が掛けた黒魔法が完全に解かれたことを表していた。
「じゃあ、私と一緒の世界に戻ろう」
「アタナシア」
「なに?」
「お前は俺の娘だ」
「……当たり前でしょ!」
笑顔で涙を流したアタナシアはおかえり、と言った。遠回りしたが、娘を守るために自分がいる。ダイアナとの約束を胸に、自分は娘とともにこれからも生きていくのだ。
目を覚ますと、見慣れない天井が目に入る。あまり使う頻度の高くない寝台だった。温もりを微かに感じて顔を横へと向けると、そこには眠る娘がいた。少し幼い寝顔に、今の時代を確認する。
「おい!おい!起きろよおい!」
かつてアタナシアを魔力の暴走から救った宮廷魔法使いが、目を覚まさないアタナシアの身を案じたのか、身体を揺さぶり起こそうとした。
「そんな乱暴に扱うな」
まだ力の入らない手で魔法使いの腕を掴もうとすると、睨まれて腕を振り払われる。
「コイツは、お前のために…!」
すると大きな声に起こされたのか、横で眠っていたアタナシアが身動ぎ薄っすらとその大きな目を開けた。瞳は白い光を映し出し、放心しているようだった。額に掛かる前髪を払い、顔を覗き込むと、目を見開き飛び付いてくる。
「パパ!?」
「ああ」
「パパが起きた…!ルーカス、私成功したみたい!」
「…そうみたいだな」
何とも慌ただしい。目を覚ます前までの感動の抱擁をこの娘は覚えていないのだろうか。忘れていた記憶もすべて取り戻したというのに。
「パパ、大変なの!私のおじさん、つまりパパのお兄さんが来て!」
不思議と魔力は以前よりも回復していた。さて、娘を傷つけたという兄と対面しなければならないな。
自分の纏う魔力を放出させると、部屋のあちこちの物が壊れる音を上げ、宮殿内は騒然とした。
終わり
コメントを残す