十五年の空白と私

十五年の空白と私

 

あの日から何日が経とうとも、長く幸せな夢を見続けているような錯覚に陥ってしまう。かつて永遠の別れを告げたはずの最愛の人の腕の中で眠り、私はちゃんと呼吸をしている。その実感が欲しくて厚い胸板に手を伸ばしてペタペタと触ると、私を抱きしめる腕の力が強くなり、安心感に包まれた。以前も彼と同じ寝所で眠ったことはあったが、こうして毎夜毎夜抱きしめられて眠ることはなかった。その違和感と、幸せの狭間で微睡む。

「陛下……」

あまりにも腕の力が強くなっていくので目の前にいる男の呼称を口にする。すると、元々眠りが浅いのだろう、薄っすらと瞼を上げ、青く光る宝石眼を覗かせた男に頬を撫でられる。腰に回された片腕の力は次第に弱まり、反対の手で頬を何度も繰り返し撫でられた後、優しく唇をなぞられた。

「ダイアナ」

彼のこんなに優しい声を以前の私は知らなかった。出会った頃の陛下は、側近の騎士を除いて他人を信用しきれないと言わんばかりの態度で、私を含め周囲を威嚇していた。彼に見初められてからも、傍を離れることは許さないと強引に逃げ道を塞がれ、私の言葉はまるで信じきることができなかったようだ。私は彼を愛していたし、決して逃げたりはしなかったのに。

それでも結局妊娠して、自分の命と引き換えに子を産むことができると分かったときには、彼を裏切ってしまったが。そこから少しずつ確かに開きはじめた彼の心は一瞬で閉ざされたのだった。そんな難攻不落の彼を、娘がここまで変えたというのだろうか。

「またこうして陛下と一緒にいられるのが、幸せな夢を見ているだけなのかと」

「そんなことはない」

彼は私の言葉を否定するように言葉を被せ、最後まで言わせようとはしなかった。それ以上の言葉は紡がれない代わりに、再び彼の肩口に顔を埋める形に固定されて抱きしめられた。

「なぁ……」

「……?」

その体勢のままどれくらいの時間が経っただろう。突然、彼にしては珍しくか細い、自信の無さそうな声が頭上で発せられた。顔を見上げようとしても、力強い手で頭を定位置に戻されてしまい、表情を確認することは許されなかった。

「アタナシアは……どうだ?」

きっと、彼は今も私の見たことのない顔をしているんだろう。そんな表情を引き出せる実の娘に少し嫉妬してしまったことに気がついて苦笑いする。

彼と私達の娘であるアタナシアは、しばらくの間、顔を合わせていなかった。それは意図的に、アタナシアが会うことを拒否したからだった。

遡ること10日前。陛下とアタナシアと3人で朝のティータイムを楽しんでいた時だった。私がこの世にいない間に娘のアタナシアは15歳になっていて、私は出産直後から今までの成長を追えなかったことを毎日のように悔んでいた。

そんなアタナシアはその日も可愛いドレスとヘアセットで私達の前に座っていたのだった。ねぇ、と可愛らしい声を呟いたのには、父である陛下も顔を上げて耳を傾けた。

『パパ、今度マグリダさんの家に泊まりに行きたいの』

『マグリダ……アルフィアス邸へか?』

『そう』

陛下はカチャリ、と手に持っていたティーカップを音を立てて置くくらいには乱暴に扱うと、機嫌の悪そうな顔を露わにした。私も彼のこの顔は生前もよく見知った顔で、変わらないところもあるのだなと安心してしまった。しかし、それは大きな間違いであることにすぐ気が付く。

『ダメだ、あの娘をここへ呼べばいいだろう』

陛下の言うことも一理ある。帝国の姫であるアタナシアを皇城の外へ出すのは親としては不安だ。しかも、こんなにも可愛い娘である。何の事件に巻き込まれるかは分からない。

『それじゃあダメなの!アルフィアス領にある海へ行きたいの!』

『二人だけでか?』

『それは……』

バツの悪そうな顔を見せたアタナシアに、陛下は細めた目から鋭い宝石眼を光らせる。それはまるで獲物を捕えるように。

『狸の息子もいるんだろう』

『私もジェニットもその場所に詳しくないから、公子が連れて行ってくれるの』

『ダメだ』

『なんで!?』

『……』

私には陛下が許可を出さない理由は一目瞭然だった。その公子の家に宿泊させたくないのだ。私が少し男性と話しているところを見ただけで殺意を全開にさせていた男は、十五年経ってもそう簡単に改心することはなかったらしい。

『パパにはもうママがいるんだから私が何をしたっていいじゃん!もう15歳なんだよ?』

『ダメだ』

『頼みを聞いてくれないパパなんて……だいっきらいだから!!!』

『……』

私が親子の一連のやりとりを見て考え事をしている間にアタナシアは部屋へと戻ってしまった。その場に取り残された私たちの間には気まずい沈黙が流れる。

『陛下……』

『……』

目を見開いたまま微動だにしない陛下になんだか可笑しくなってしまって、フフッと笑うと周囲のメイドたちが慌てたのが視界に入り、しまったと口を手で覆う。どうしたら放心状態から陛下を呼び戻せるかな、なんて考えながら彼の手を引き自室へと連れて行った。

そこからの陛下は表面上はいつも通りではあるものの、アタナシアの様子が気になって仕方ない様子。彼女の様子について尋ねられたのも今日が初めてではなかった。一体いつまでこの状態が続くんだろうと、私の知らない一面を見せる陛下にそろそろ心配になってくる。

「いつからあんな反抗するようになったんだ」

「……」

そうボヤいた陛下の顔は父親の顔をしていた。その顔に、嬉しいような、寂しいような複雑な気持ちが入り交じる。アタナシアはいくら私がお腹を痛めて産んだ子とはいえ、子育てをする間もなくお別れしてしまったこともあり、二人の親子としての馴れ合いに疎外感を感じてしまう。

そんな私の心情を察したのか、陛下は「今度アタナシアの映像石でも一緒に見るか」と言ってくれた。

傷ついた様子の陛下がどこか幼く見えて、私は寝台から身体を起こす。壁に背中を預けて、私の方を見ている彼に向って太ももを叩いて笑うと、彼は頭を私の膝の上へと乗せた。膝に乗った重みが心地良い。柔らかい指通りの良い髪を撫でると、すぐに彼の細い寝息が聞こえてきたので、頬に口づけを一回落として私もその体勢のまま目を瞑った。こうして再び生を受けたのに、寂しいなんて悩むのは贅沢なことだと自分に言い聞かせて。

翌朝、陛下とアタナシアの間をそろそろ取り持たなくては、とアタナシアの様子を見にエメラルド宮へと足を運ぶ。

「アタナシア」

「ママ」

私の一度目の人生とそう変わらない年齢の娘。娘というよりは友達のような、不思議な感覚を抱いていた。何をしているのか尋ねれば、歳の近い貴族たちからの誘いの手紙に返事を書いているのだと言う。私と話しながらペンを走らせる姿に何て器用なんだろうと感心した。しばらく他愛もない話を楽しんだ後、本題に触れるとアタナシアは初めてペンを止めて険しい顔をした。

「マグリダ嬢の元へは行かれるのですか?」

「……行くよ。パパは何でも反対するから、ママが帰ってきた今しかないもん」

「でも……」

10日経った今でも意地を張る姿が昨日の陛下と重なる。もしかしたら、突然母を名乗るものが現れて、ずっと二人だけの世界だったのに父を奪われて寂しくなっているのではないか、と思った。

「パパに私を説得してこいって言われたの?無視していいよ」

「言われていないけど、陛下がいつまでも意地を張っているから」

「パパってそういうとこあるよね」

あなたもよ、そう口に出しそうになりグッと堪える。娘の苛立ちを加速させるようなことを今はしたくない。でも、陛下が娘を一番大切に想っていることは伝えてあげないと。私が今二人にできるのはこれくらいだから。

「あなたが口を聞いてくれなくなって、眠りも浅くなっているみたいだし」

「……」

「私は……あなたたち親子の絆が羨ましい」

「絆……?」

多分、陛下は素直な性格ではないから、この愛娘を受け入れるまでに葛藤もあっただろう。それを乗り越えた15年という歳月は父娘にとってかけがえのない時間だったはず。それを私がーーー。

「私は陛下ともあなたとも短い時間しか過ごしていないから」

「……」

「一緒に過ごしているとよくわかる。陛下はあなたをとても愛しているわ」

娘に何て話をしているのかと、急に恥ずかしくなった。いい歳をして、夫と娘の仲が羨ましいなんて。娘は呆れているかもしれない。

恐る恐る顔を上げると、そんな私の心配とは裏腹に、アタナシアは私に向かって優しく微笑んだ。それはまるで天使のように、私の不安な心を包み込む。

「私は小さい頃からずっとママの顔も声も知ってたよ」

「え…?」

「パパがママとの記憶を夢で見せてくれていたから」

私の知っている陛下ではない行動に、この天使は私の醜い心に気がついて救い出そうとしてくれているのではないかと思った。

「あと、眠りが浅いって言っても一緒にベッドで寝てるんでしょ?」

「え……」

頬に熱が集まっていくのを感じる。娘から指摘されてこれほど恥ずかしい話があるだろうか。

「パパはずっと、一人でベッドでは眠れなかったんじゃないかな。いつもソファーで寝てたから」

「……」

「パパはずっとママを大切に思い続けてたよ。私は……夢でしか会ったことなかったから、まだ分からないけど。でも母親ってこういうものなんだなって」

15歳のはずなのに、先ほどまで映像石で見ていた幼少期のアタナシアの姿が脳裏を掠める。過去を悔やんでも仕方がないけど、この子の成長を毎日目で追えていたのなら。私の目から一筋の涙が溢れると、娘が気を遣ったのか妥協案を提示してきた。

「はぁ…なんか可哀想になってきたから、パパが謝りにきたら、行くの止めてもいいかな」

「ふふっ」

『あいつが謝るなら、今回だけは認めてやるか』

昨日目を閉じながら独り言のように呟いた陛下と今目の前にいる娘の言動が重なった。

「本当に親子なんだから」

そう言ったアタナシアは照れ臭そうに目を伏せると、向かいのソファーからそろそろと私の方へ近づいてきて、私の肩に頭を預けてきた。素直に甘えることが苦手なところまでそっくりね、と私は口元を緩めながら、愛しい娘の頭に手を乗せた。

ずっと一緒にはいられなかったのに、娘と一緒にいるだけで安心感に包まれる。これが母親というものなのだろうか。

「陛下。今、陛下から謝ればアタナシアは行くのを止めると言っていましたよ」

「なんで俺からなんだ」

不服そうな顔をした陛下に私はため息を吐いた。結局意地を張り続けた親子は、マグリダ嬢との約束の日になっても歩み寄ることはできなかった。そんな父親の態度に、アタナシアは私に愚痴を零しながら準備を進めていて、ロベイン卿を護衛につけるから大丈夫、と言って荷造りを終わらせた。そして、荷物が少しずつ馬車へと乗せられていく。

「出かける準備をしろ」

いつの間にか背後にいた陛下に話しかけられて困惑する。

「はぁ……どちらへ…?」

それは問わずとも、少し考えればすぐわかることだった。

「は、はぁ?なんでパパが…」

アタナシアの乗った馬車の方向へと陛下から手を引かれて乗り込むと、とても嫌そうな顔をしたアタナシアと、その顔を見て同じ表情に変わった陛下。早く素直になればいいのに、と思ったが険悪な雰囲気に口に出すことはできなかった。

「アルフィアスから急ぎ来るようにと呼ばれてな。そうしたらちょうど邸へと行く馬車があるではないか」

「……」

呆れた顔を見せた後、今にも反論を口に出しそうなアタナシアの口を塞ぐと、可愛い顔に睨まれる。しょうがないじゃない、陛下が一生懸命考えた言い訳なんでしょうから。

一番涙目なのは、間に挟まれた私ではなく、急遽皇帝の来訪が決まったアルフィアス公爵だっただろう。公爵はアタナシアと公子を近づけて皇室進出への一歩を図る企てだったが、それは目を光らせた過保護な父親により阻止されることになる。

「ごめんなさいね」

久しぶりに見た海。初めての海にはしゃぐ娘たちを遠目に白浜の上に居た。少し離れた距離から同じく娘たちを見ていた美しい銀髪の青年に声を掛ける。

それは”せっかく同年代たちで楽しもうと思っていたのに、親が付いてきてしまうなんて”、という謝罪だった。陛下はアルフィアス邸に到着して出迎えてくれたこの青年に対して、初っ端から敵意を顕にしていた。大人げなくとも、これが娘を持つ父親というものなのだろうか。私にはわからなかったが。

私の謝罪に公子は穏やかな微笑みを浮かべて言った。

「いえ。遅かれ早かれ、いずれは越えなければいけない障壁なので」

「まぁ!」

そしてまた娘の方へと視線を戻した青年の表情に、娘を想い勝手に歓喜してしまう。そういえば宮廷魔法使いの青年も優れた容姿をしていた。これはそう遠くない未来に、陛下は娘との貴重な時間が取り上げられてしまうのかもしれないと思うと、なぜだか私まで切なくなってきた。

そんな可哀想な父親を探していると、彼はいつの間にか私のすぐ隣でアタナシアを切なく愛しそうに見つめていた。何がそんなに不安そうな顔をさせるのだろうか。いつか彼女が伴侶を見つけてあなたの一番ではなくなるかもしれないけど、あなたは間違いなくあの子の父親で、絶対に無視できない絆があるのに。

「一緒に皇城の外へ出たのは初めてだったな」

突然話しかけられて、反応が遅れてしまうと陛下はアタナシアから視線を外して私の方をチラッと見た。

「ええ」

「……」

一体何を考えているんだろう。元々口数の多くない陛下の考えはわかりにくかった。

「アタナシアはお前にそっくりだ」

再びアタナシアへ視線を戻し、同じような表情をする。みんな口を揃えて言う。アタナシア様はダイアナ様に瓜二つね、と。でも私からしてみたら。

「…陛下にそっくりです。性格とか」

私の言ったことが腑に落ちていないのか、フム?と手を顎に当てて共通点を探しているようだった。

「笑った顔、寂しそうな顔、怒った顔、幼い頃からずっと、表情の全てがお前と重なった」

穏やかに目尻を下げた陛下を最後に見たのは一体いつだったか。二度と、こんな顔を見ることは叶わないと思っていたのに。

「感情を揺さぶってくるところもそっくりだ」

「ふふっ、なんですかそれ」

涙腺が緩んできたことを誤魔化したくて、俯いて笑うと、急に力強く抱きしめられる。

「お前が、アタナシアを産んでくれて良かったと思ってる」

堪えきれなかった涙が一粒零れた。

『行くな俺を選べ。今この瞬間もお前の命を蝕んでいるその子ではなく俺を!』

一番辛い記憶が脳裏に蘇る。陛下と永遠の別れか、陛下との間にできた最愛の子供に別れを告げるかという究極の選択。

「最期まで、傍にいてやれなくて、すまなかった」

ずっと一緒にいると誓った日、命がもう長くないと宣告された日、命の選択を迫られて決断した最期の日。様々な記憶がフラッシュバックして涙が止まってくれない。

アタナシアを産みたいと思った私の選択は、決して間違ってはいなかったのね。

陛下に涙を拭かれても、すぐに新しい涙が零れ落ちていく。瞼に口づけられて、顔に落ちた髪を優しく耳に掛けられて、視線が交じり合う。

日差しに照らされてより黄金に陛下の髪が煌めいていた。そして私に向けられた青い瞳から一瞬も目が離せない。瞬きすることですら躊躇われる。

15年も経ったのに、全く老いを感じさせない。むしろ、前よりも―――。お互いに引き寄せられて、唇が掠めたその時。

「ちょっと!恥ずかしいからもっと見えないところでやってよ!!!」

顔を真っ赤にしたアタナシアに海水を浴びせられる。私も陛下も状況の把握が追いつかず、呆然と立ち尽くした。

「何をするんだ」

「それはこっちのセリフ!勝手に着いてきて!親のラブシーン見せつけられるこっちの身にもなってよ!」

「何が悪い」

「そうだよね!パパは昔から遠慮なく夢でママとのラブラブな姿を見せてきたよね!」

「そんなものは見せていない」

「私は見たの!!!」

よく分からない言い合いはしばらく続くかと思われたが、アタナシアが波に足を滑らせそうになったところを陛下が支えたところで収束した。

あの時どれだけ望んでも訪れるはずのなかった幸せな時間が、今ここにある。幸せにしたい人とその子供と、少し遅くなってしまったけれど、限られた時間を大切に生きていこう。

「フフッ」

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