そこにあったのは一年前と何も変わらない笑顔。アルコールが少し入り頬を上気させている表情には、微かに艶めかしさを感じさせる。山田はChocolate Rabbitのグループチャットに投稿された元彼女・茜の写真を一枚一枚スワイプしゆっくりと眺めていた。
「おい、おいってば」
「……?」
「お前ずっとスマホ見て。せっかくみんなで飲みに来てるんだから、スマホは置いて会話をしろ」
「飯食うだけって井口先輩が言ったんじゃないすか」
「飯食うの中には会話とか交流も含まれてるんだよ。お前の今後のために言ってんの」
「なんで他人と会話する必要が」
「せっかくモテるんだからさ、早く新しい彼女作れよ」
井口の言葉に、同席の女性たちは待ってましたと目を輝かせる。倍率の高い研究室に入ってしまった山田との接点を持つためには、井口という窓口を通すのが最短ルートというのが大学内では周知の事実であった。しかし、こうしてやっと山田と同じ席につくことができても、目の前の席に座れたとしても、山田と視線が交わることはない。井口が見かねて声を掛けるまでスマホの画面に釘付けであったし、話題を振った後も、話しやすい質問を持ち掛けても、女性たちが山田の視界に入ることは無かった。
こうなれば目の保養として楽しむか、と女性たちも切り替えを決める。山田は井口以外の人間と滅多に口を聞かないことは有名であったし、同じ研究室に所属する所謂カースト上位の女性にも興味を示さないことから、本当に女性自体に興味が無いということが自分たちの目で見て分かっただけでも収穫だったようだ。
「別に。彼女とかいらないっす」
「恋愛したことが無いわけじゃあるまいし」
正確には、山田は『ある一人を除いて』女性には興味が無かった。山田の頭の中は、先日予期せず再会した茜のことで埋め尽くされていた。茜は一年前と変わらない外見をしていたが、彼女には既に自分ではない新しい恋人がいた。自分と過ごしたあの幸福な時間と同じように、別の男が茜と一緒に過ごしているのかと思うと、知りもしない二人が寄り添う姿を勝手に想像しては胸が苦しくなった。
「茜、飲みすぎだって」
「まだまだ大丈夫」
すると近くのテーブルから、思いが強すぎるが故に生じた幻聴を疑う声が聞こえてきた。山田が先ほどから考えていた茜の声だった。勢いよく振り返ると、そこにはジョッキグラス片手に背中を少し丸めて友人へ寄りかかる茜がいる。山田と同じく、男女の友人らと一緒にいて、そろそろ会計をしようと伝票と財布を持ち寄っていた。
「いや、私たち家まで送ってあげられないよ」
「別に一人で帰れるし」
「今日は高橋くんもいないんでしょ」
「だから一人で帰れるって言ってるでしょ。もっと飲ませろー」
「はぁ」
「俺が木之下さんを責任持って家まで送ろう」
「あんた下心丸見え」
「高橋くんがいないからって」
「あの」
山田は酔い潰れた茜を見て、考えるよりも先に身体が動いていて、茜の友人らしき人物へ声を掛けていた。その女性は、山田に声を掛けられたことが自分だと気付き、その容姿に顔を赤らめるが、疎い山田はそのことに気付きもしない。
「茜さんの後輩です。俺が送ります」
「え、でも」
「んあ、やまだ?」
「家も知ってるし、何度か酔った茜さんを支えて歩いたこともあります」
「あ、あのそういうことではなくて」
「何か、問題ありますか」
女性が何を言おうとしているのか、流石の山田にもはっきりと分かった。『茜には恋人がいるから』と、その言葉が返ってくる前に、少し語気を強めるようにして、女性の目を真っすぐ捉える。
「この中の誰よりも適しているし、あなたも酔っ払いを送り届けるのは面倒くさいですよね。俺だって面倒です」
「あ、いえ。何でもないです」
女性はこれ以上、この後輩を名乗る人物の言うことに口出ししてはいけないことを察知し、黙り込む。山田はそそくさと自分の席へと戻り、PCの入ったリュックを回収して井口へと声を掛けた。
「井口先輩、お金置いておきます」
「ん?急にどうした」
「用が出来たんで帰ります」
「は?おい!急すぎるだろ」
「え、山田くん帰っちゃうの」
「お疲れっした」
「どこいくんだ」
山田は再び茜の元へと向かい、腕を引きゆっくりと立ち上がらせると、そのまま手を引いて店の出入り口へと向かう。女性陣からの不満が続出したことで慌てて山田を追いかけてきた井口は、山田が腕を引いた人物を見て驚いたように声を上げる。
「え!お前、それ元カノだよな?」
その声に茜の友人たちも驚いたように視線を二人へと向ける。
「茜の元カレ?例の年下ゲーマーの?」
「噂に聞いてたけど想像以上にイケメンじゃん」
「でも……いいのかな、茜、高橋くんが……」
「誠実そうだし大丈夫でしょ」
「何もないほうがおかしいでしょ。木之下さん、やるなぁ」
山田は彼らの声を耳に入れることをせず、井口に会釈だけするとその場から立ち去って行った。その行動を面白くなさそうに見ていた男が、スマホで誰かに連絡を取っていたとも誰も知らずに―――。
寒空の中、覚束ない足取りの茜の身体を支えるように歩く。お互いの体温で暖を取るように寄り添うのが心地よくて、家がもっと遠くにあればいいのに、なんて女々しいことを山田は一駅にも満たない帰路を歩きながら考えていた。自分が店から連れ出したことにも気づいていない茜を、このまま自分の家に連れて帰ってしまおうかと山田は考えたりしてみて、それは恋人のいる女性に対してあまりにも不誠実だなと直ぐに思い直す。そんな思考を一人繰り返していると、気付けば茜の自宅との分岐点に着いてしまっていた。
「茜さん、茜さん」
「なあに」
「家、前から変わってないでいいんですよね」
「どっちだと思う?」
山田の反応を伺うように見上げる茜の顔を、山田は可愛いなと思いながらも、顔を逸らして敢えて視界に映らないようにした。
「はぁ……いいから早く教えてください」
「引っ越したよ」
「まじすか。じゃあ帰り方、教えてください」
「むりぃー。やまだにはおしえなーい」
「じゃあ俺の家行くけどいいの?」
「久しぶりに行きたい!」
「はぁ?」
警戒心を微塵も感じさせない返答に山田は困惑した。けれど、酒を飲むといつもの強すぎる警戒心が嘘のように解かれるのも、昔と変わらなかった。
「茜さんが言ったから行くんですからね。これだけはしっかり覚えておいてくださいよ」
「はーい」
そして、その時会話した内容を茜が覚えていないことも知っていた。それを知っていて、自分の中で正当な理由を作るのだ。『茜さんが俺の家に来たいと言ったんですよ』、と酔いの醒めた茜に掛ける言葉まで用意して。
家の扉を開けて、引き返すならここだと最後に茜の様子を伺うと、何も気にすることなく靴を脱いで部屋へと上がったので、仕方なく山田も自分の部屋へと足を踏み入れる。コートやバックを回収して茜をソファーへ座らせて、急いで水を用意すると、ゆらゆらと身体を揺らしていたので、肩を支えて顔を覗き込んだ。すると、茜は眠気が限界に達しているのか、焦点の定まっていない目をしていた。赤く染められた頬も相まって、この部屋で幾度も重ねた情事が思い起こされて、山田は少し動揺する。
お互い顔を逸らさずに見つめ合っていると、山田はかつての距離感を許されているような、触れることを許されているような錯覚を引き起こし、右手で茜の頬を包み込むようにして触れた。
「みず」
「え……?」
「みずがのみたいなぁ」
「あ、はい」
触れることは許されても恋人同士のように甘い雰囲気になることはなく、山田は淡い期待が裏切られて肩を落とした。左手に持っていたグラスを手渡すと、茜はごくごくと勢いよく喉を鳴らして飲み込む。この水のように自分も欲されたい。最後の一口を飲み干すまで、水の流れを目で追ってしまう。口元からだらしなく垂れた一滴に手を伸ばして拭うと、茜は拒絶することなく静かに目を閉じると、山田の指先を受け入れた。そして、喉を潤し満足した茜は、グラスを持ったまま目の前に膝をついた山田の肩に頭を置いて重心をかけてくる。
「茜さん、グラスください」
「……」
「……?」
心地よさそうな熱い寝息を首元に感じて、山田は深い溜息を吐いた。グラスを机の上に置き、そのまま華奢な茜を抱きかかえて、ベッドへと運び下ろす。山田はベッドの脇へと立ったまま、どこまでも自分の心を弄ぶ、憎たらしくも愛くるしい寝顔を眺めることにした。
「茜さん、いつもは人一倍警戒心が強いのにね」
茜は簡単には無防備な姿を他人には晒さない。他人となった山田には特に、いや絶対に晒すことはしないだろう。それなのにアルコールが入っただけでこんなにも危うい。あのまま同席していた男性が送ることになっていたら、ホテルへ連れ込まれていたかもしれない。そんな危うさが腹立たしくもあり、自分の唯一付け入る隙でもあるから山田は心の中で葛藤してしまう。
「茜さん」
呼びかけても返事をしない茜が深い眠りについていることを確認して、それは自然の流れとも言える動作で部屋の照明をすべて消した。PC周りの照明もすべて消して、この部屋から灯りが何一つ無くなったことを確認して、山田は先ほど中断された行為を再開する。顔にかかる髪を起こさないようゆっくりと避けて、無防備に晒された白い頬に優しく触れた。親指の面使い何往復かさせ、まだ微かに化粧の施された肌を撫でる。
「茜さん」
「ねえ茜さん」
起こさないようにしていたくせに、何も反応が無いのもつまらない。意識が朧気であろう茜の浅い睡眠を覚醒させるように静かに名を呼ぶ。
「茜さん」
「ん、やまだぁ」
茜の中に自分が未だ存在することを感じて、山田は気分が高揚した。すると、憎らしいという気持ちは消え、どうしようもなく愛くるしいという気持ちだけが残されて胸の中いっぱいに茜に対する想いが渦巻く。歯止めが効かない。止める理由が、今の自分には無い。
「キスしてもいいですか」
「だめ」
「なんで」
「怖い顔してるから」
「怖い顔してなかったらいいですか?」
「……いいよ」
「本当に?」
「変なの。そんなこと、きいたことあったっけ」
茜がまだ夢見心地に薄っすらと微笑んでいること、この会話が彼女の現在の本心であるはずがなく、記憶が一時的に逆行していることは山田にも分かっていた。けれど、いくら寝ぼけているからとは言え、触れることを許可されて、そして翌日目を覚ましても記憶がないであろう茜に、触れないという選択肢はなかった。茜にとっては不本意だったとしても、自分の欲求を満たすことを優先したくなったのは、山田にとって初めての感情だった。
大して考える間もなく性急に口を塞ぐと、んっという声が、触れた茜の口から零れて山田は興奮した。これまで触れ合えなかった一年という月日を埋めるように、何度も角度を変えては深く啄む。頬から耳、首筋へと指先を滑らせながら、茜の身体を少しずつ解いていく。
「はぁ」
息継ぎする間も与えずに、軽い酸欠になりながら頬を上気させる姿が堪らなく好きだった。口付けている間も、ずっと見ていたくなるほどに彼女の表情に酔いしれ、視線を外すことなく唇を重ね続ける。
そして、暗闇に視界が慣れてきた頃、目に入った白い首筋から目が離せなくなる。自分の身体を少し下へと落として、首筋に軽く唇で触れると、茜が身体を捩った。少し触れただけでは足りない。もっと、もっと触れたい。彼女は自分と同じ気持ちなのだという証を、彼女と親密な人間にだけしか分からない場所に残したい。何度か舌を這わせた後、軽く歯を立てた。そのまま圧をかけようとしたその時、忘れようとしていた茜の表情が蘇ってきて、動きが止まる。
『迎えに来てくれるの』
送ると声を掛けた時の、一線を引くように山田を牽制したあの顔を。そう、今夜だって意識がしっかりあれば、一緒に店を出ることも、部屋の中へ入れることも、茜は絶対に避けるはずだった。アルコールに弱いという茜の弱点に山田は付け入ったのだ。
茜が自分を拒絶するほどに守りたい、顔も知らない茜の恋人だという男への嫉妬で山田は頭がおかしくなりそうだった。けれども茜の気持ちを無視し一方的に好意を押し付けるのは人間として落ちぶれているし、せっかく再び巡り合えた縁をも壊してしまうことになると思うと、山田は冷静になることができた。自分が触れた痕跡を消すように、茜の顔から首にかけてを濡らしたタオルで拭うと、山田自身はまだ熱の籠る身体に冷水を浴びるため、浴室へと向かうのだった。
***
「え、ここはどこ」
「おはようございます」
自宅ではないこと、そして山田の家であることに気付いたであろう茜は、想定通りに蒼ざめた顔をした。
「私まさか……」
そして布団を捲り全身を確認した茜は、これまたわかりやすく安堵の表情を見せた。
「そんなわけ、ね」
「何かあったように見えますか?」
「いや無いけど」
「なんで?」
「え?」
「なんで、俺と茜さんはそういうことをしたことがあるのに、何にもないと思えるんですか?」
「……は?」
未だ無防備な茜の態度にムッとした山田が挑発的な問いを投げると、茜の眉間に皺が寄る。それは間違いなく拒絶の表情だった。
「別に何もしてませんよ」
山田は自嘲気味に笑い、嘘を吐いた。昨夜のことを何一つ覚えていないこと、自分を男として見ていないこと、無意識に誘惑してきたこと、茜のすべてが腹立たしかった。腹立たしいのに、好きな気持ちが全く消えないことも、腹立たしい。そんな山田の態度に、茜は納得がいかないのか難しい顔をしたままだ。
「何もしてないって言ってるのに、何でそんな怒ったような顔してるんですか?」
「男女が密室でふたりきりになる意味、山田はわかってるの?」
「……さあ?」
「たとえ何もなくても、私は彼氏に対して後ろめたくなる。逆の立場だったら私は堪えられそうにないから」
「何もしてないのに?」
「それをどうやって証明するの?」
「……」
「まあ、山田に言ってもしょうがないんだけどさ。私が酔い潰れたところを介抱してくれたんだよね。山田が私に何もしないのも知ってる。助けてくれてありがとう。ほんと、お酒には気を付けないと。山田もね」
そうして簡易な御礼だけ述べると、茜は慣れたようにコートとバックを手に取り玄関まで駆けて行ってしまった。その場に一人取り残された山田は、一年前の別れたあの日と同じ顔を一瞬見せた茜に、再び当時を思い出して、その場から動くことができなかった。
<続>
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