2.変わらない僕

「は……?」

山田は目の前の光景に思考が停止し、その場に立ち尽くす他無かった。六人用の個室には既に山田以外の四名が椅子に腰かけていて、その面々は少し懐かしい。しかし、その奥側の中央に座る一人の女性の姿しか、山田の目には映らなかった。山田に気付いた彼女は目尻を下げて微笑み、一年前と変わらない声で彼の名を呼んだ。

「山田、久しぶり」
「……っす」
「サプライズゲストで茜っち〜♡」

“瑠奈たち”という言葉の中に、まさか茜が含まれているとは思ってもみなかった山田は、彼女からの挨拶に対してまともに声を発することができなかった。入口に一番近い席へと着いた山田は、乾杯の飲み物を口に含んだ後も、斜め前に茜がいるという状況を未だに飲み込めていない。

「茜っち、また一段と綺麗になったね」
「そんなお世辞はいらないってば!」
「なぁ、秋斗もそう思うよな?」
「まぁ……そうっすね」
「言わせてるじゃん。山田には女性の美醜は判断できないんだよ」

先日すれ違ったのは人違いではないかと思うほどに、彼女は記憶にある姿と何も変わらなかった。別れたことが夢なのではないかと錯覚してしまうほどに。

「茜さん、茜さん」

瑠奈は茜の隣をキープしつつ、茜に酒は飲ませまいと目を光らせていた。どうやら彼女も茜と会うのは久々であるようで、最近何をしているのか、どこに住んでいるのかを根掘り葉掘り尋ねていた。
山田は瑛太の会話に対して相槌も打たずに、茜と瑠奈の会話に耳を傾けてしまう。彼女の質問は、山田にとっても茜と別れてから知りたくても知ることのできなかった情報を引き出していたからだ。
どうやら茜は東京と実家のある群馬を定期的に行き来しながら、結局東京に就職先を決めて落ち着いた頃だと言う。進路に思い悩み、目の下に隈を作っていた頃の彼女の顔を思い出し、山田は少し安堵した。

「それにしてもさぁ」
「うん?」
「どうしてあんなに仲の良かった山田さんと別れちゃったの?」

瑠奈の発言に、山田は表情には出さないものの、心臓が口から飛び出てしまいそうなほどに動揺していた。茜が続けて発する言葉が気になり、視線をチラリと向けると、困ったような表情をした茜と目が合う。

「瑠奈ちゃん、そういうのは……」
「いいじゃん。もう時効でしょ。山田さんに聞いても教えてくれないんだもん」
「それはそうかと……」
「瑠奈のこと放って、いつも二人だけで遊んでさ。瑠奈、寂しかった」
「うーん」

そうして、茜は眉間にシワを寄せて悩む素振りを見せると、言葉を慎重に選ぶようにして口を開いた。

「まぁ簡単に言うと、私が重たかった、からかな?」
「重い……?」
「山田、モテるから」

山田は茜の言葉に耳を傾けながら、視線を逸らして当時を思い出す。
白い吐息がお互いから溢れる程に冷えた日の夜、彼女をいつも通りマンションまで送り届けた時のことを。何度か些細な言い合いが続き、お互いの頭が冷えるのを少し時間を置いて待とうと彼女に背を向けた。

『この話はまた落ち着いてから今度、おやすみなさい』
『……山田のことが好きなだけなのに、好きなだけじゃ、上手くいかないね』

山田の思惑とは異なり、解決をこの先へと持ち越すつもりのない意志を表した茜の言葉だった。震える声の方へと振り返ると、茜は涙を浮かべて無理に微笑んでいた。その表情に、”良い女がいたなって思わせたい”と笑っていたかつての茜を何故か思い出してしまい、山田の中で危険信号が合図を出した。茜が自分のことを過去にしようとしていることに気付き、彼女の細い腕に触れようとするが、スルリとかわされてしまう。

『好きなだけじゃ、ダメなんですか。俺は茜さんがいればそれで』
『自分のせいで無理してる山田を見るのは辛いかな、ゴメン』

だから別れよう、と茜から告げられた。山田は拒否したが、これまで嘘を重ねてしまったことで彼女からの信用はもう残されていない状態だった。いくら弁明の言葉を重ねても、彼女には何も届かない。山田は茜の部屋の前でしばらく立ち尽くしていたが、どれだけ待とうとも扉が開くことは無かった。その後、何度か連絡を試みるものの、返事が来ることは一度も無く、会うことも叶わなかった。
茜と一緒に過ごした恋人としての短い時間、それは山田にとって本当に夢のようなものだった。付き合う前は彼女を高嶺の花だと思っていたのに、少しずつ距離が近づくにつれ、彼女が傍にいてくれることを当たり前のように感じ、恋人になれた奇跡を忘れてしまっていた。失って初めて、大切な人の存在に気付くとは本当のことなんだなと、どこか他人事のように思って考えることを放棄した。放棄しても、気付けば物や場所から茜の面影を追ってしまってはいるけれど。

そんな、恋焦がれた彼女が今、目の前にいる。もう二度と交わることなく人生を歩むと思っていた彼女がいる。山田は再び横目で茜を観察した。最後に見たときよりも、表情豊かによく笑い、目元に隈も見当たらず、顔から首筋、手の指先まで透き通った肌がより一層彼女を綺麗に見せている。こうして再び出会ったことにもし何らかの意味があるとしたら、次自分は何をするべきだろうか、と山田は考えた。しかし、そんな能天気な山田の思考はすぐに打ち砕かれることになる。

「今は?彼氏いる?」
「……いるよ」
「へぇ。まぁそうだと思ってた」

瑠奈は山田の反応が気になったのか、一瞬視線を向けたが、予想通り山田の表情からは何も読み取ることはできない。ただ、当の本人はというと、頭を鈍器で殴られたような衝撃に頭の中は真っ白になっている最中だった。

「また久しぶりに遊べると思ったのに」
「彼氏はいるけど、遊べるよ。またみんなで遊ぼう」

その後も瑠奈と茜の話は続いたが、その会話は山田の中で右から左へと流れるだけだった。山田は珍しく傍にあった誰かの注文したアルコールを勢いよく喉に流し込み、アルコールの力を借りて今の会話を頭から排除しようとした。それでも茜に彼氏がいるというワードが頭から消えることはなく、消そうと思えば思うほど逆に頭にこびり付いて離れない。山田の脳裏では、顔も知らない憎い男が、茜の隣に馴れ馴れしく立っていた。

「秋斗くん、急にたくさん飲むと危ないよ」
「まあまあ鴨田さん、秋斗にも酒を飲まなきゃやってられないこともあるんですよ」
「そうなの……?」

茜が元恋人と別れてから山田と付き合うまでも、そこまで長い月日を要したわけではない。今、茜に新しい恋人ができていたとして、何もおかしいことはなかった。前に進んでいないのは、自分だけ。茜はとっくに手の届かない場所にいたことなんて、昨日までとっくに理解できていたことだった。

それから皆で何を話したのか、山田はよく覚えていない。会計を済ませた鴨田を筆頭に、ぞろぞろと個室から出て行く中、山田は一人席へ座ったまま動けずにいた。

「山田?」
「……?」
「飲みすぎじゃない?大丈夫?」

朦朧とする意識の中、茜の顔だけが山田の視界へ映し出される。心配するように顔を覗き込まれ、その濁りのない綺麗な瞳から目を逸らすことができない。このまま、このまま自分だけを映し出していればいいのに、と。

「顔が赤いよ」

顔へ触れる茜の細い指先が、山田の体温よりも少し温度が低くて、熱の籠った山田には心地よく感じられた。そのまま目を閉じれば、隣で一緒に眠っていた頃、自分よりも少し早く目覚めて顔に触れてきた彼女の行動と重なってしまい、思わず目頭が熱くなる。

「平気っす」
「でも」

心地よい指先が顔から離れる前に、山田は咄嗟に自らの手を伸ばして茜の手の上から重ねる。まだ、指先から伝わる茜の熱を感じていたかった。

「どうしたの?」
「あ……や、久しぶり」
「……それ私が会って一番に言った」
「そうでしたっけ」
「大丈夫?酔ってるね」

そう、酔っている。だからこの行動は酔った男の、何の意味もない触れ合いであると、山田は自分自身に強く言い聞かせた。
茜の薄い手の甲に、重ねた人差し指を滑らせると、茜がピクッと反応したことに気付いて、山田は茜の視線を真っすぐに捉える。すると茜の表情が強張ったので、これ以上は嫌がられるのかと心の痛みをチクリと感じながらも、手の拘束を緩めることにした。

「山田もお酒を飲む年齢になったんだね」
「別に好んで飲んだりしてないですよ」
「そっか。先輩との付き合いとかあるもんね」
「まぁ、はい」
「コーラ飲んでたのになぁ」

一年は人が変わるには充分すぎる程の時間だ。茜に新しい恋人ができたように、人の心は移ろいゆく。だが、山田は今日気付いてしまった。自分だけがあの一年前から、何一つ変わることなく、取り残され続けていることを。

「今でも俺は」

「コーラが好きです」

茜に対する想いだって、告白したあの冬の夜から、別れたときまで何も変わらない。寧ろ、再び巡り合ったことにより想いは更に強く―――。
そっか、と茜は静かに微笑んだ。

「送りますよ」
「大丈夫だよ。むしろ山田が帰れるか心配だよ」
「俺は平気です。もう遅いし茜さんが」

「迎えに来てくれるの」

その小さな個室にはそぐわない凛とした声に、二人の間に冷たい空気が漂った。瑛太が中々出てこない二人を探して戻ってきたことにより、外気が入ってきたのかもしれない。だが、山田、そして茜の目から先ほどまで在った柔らかさは消えていた。

「だから大丈夫。ありがとう」

茜はそそくさと店から出て行ってしまった。彼女は『誰が』とは山田に問わせてはくれなかった。問いたくもなかった。

茜の隣にいた頃から刻が進んでいない山田にとって、自分以外の誰かが彼女の隣にいるなんてことは、想像しただけで吐き気を催した。なぜ別の男のものになってしまった彼女と再会してしまったのか、こんなことならいっそ、出会わなければ―――。

『山田』

それでも自分だけに向ける笑顔を忘れるなんてことはできなかった。今日久しぶりに見た茜の顔、声、話を一つ一つ呼び起こし、薄れゆく記憶の中の彼女との思い出を鮮明に思い出していくことになるだろう。誰にも渡さない、自分だけの思い出を。

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